栞(長編) その5


 動けない。
 ベッドの上から、祐一は動けない。少なくとも1時間は動けないでいる。最初は動きたくない、だったのがいつの間にか動けない、に変わってしまっていた。
 仰向けの姿勢で良かった、と思う。もし俯せで寝転がっていたなら、今頃は苦しくて仕方がなかっただろう。夕食の後にすぐ寝転んだため、仰向けの姿勢でも腹はそれなりに苦しかったのだが。
 カーテンは開け放している。雪はようやく止んだようだった。明日は晴れるらしい。
 栞と学校から帰ってきた時には、まだ雪がしんしんと降り続いていた。ただし、「しんしんと」といった形容を用いることを許せる程度には、勢いが弱まっていた。
 あの後逃げるように3年の教室を抜け出した栞と祐一は、閉まる寸前の学食でまた茶を飲んでアイスを食べ、学食が閉まるとまた別の場所を探した。しかし図書室でおしゃべりをするわけにもいかず、ちらほらと人間が残っている1,2年の教室に二人で入っていく気にもなれず、二人は行くあてを無くして校舎をうろうろしていた。
 結局、寒いという事といい加減疲れたという事があり、二人は図書室に赴いた。そこで、静かに時を過ごした。何となく持ってきた本を読むでもなく、こそこそとおしゃべりをするでもなく。互いの顔を見つめたり、二人で窓の外を見たりしながら。
 …手持ちぶさたのような、清潔なような時間が過ぎていった。
 6時に図書室が閉まると、栞と祐一は一度それぞれの教室に戻って、防寒着を取ってきた。
 雪だるまのようにもこもこと着込んだ栞を祐一が笑い、栞が怒って膨れ…二つ傘を並べて、雪道を歩いていった。
 そしてある所、香里がいつも歩いてくるところの道で、栞は祐一と別れて家路をひとり歩いていった。
 こんな日にも拘わらず、栞は家まで送るという申し出を断った。
 フードつきの茶色い毛皮のコートが真っ黒の傘の下で遠ざかっていくのを、祐一は見ていた…香里と同じ通学路を栞が通ってきているという、当たり前の事に今更気づきながら。
 今から数時間前に起こった、一連の出来事である。
 その間、栞はまるで普段通りの様子だった。教室の中で交わした不可知的な世界観も、不思議な成り行きで交わした性行為も無かった事のように。
 そして、明日で祐一と栞の関係が終わるという事実も、無かった事のように…。
 何もかもよくわからなくなってきていた。3日前の夜、栞に対して想い出をきちんと築けているかどうか考えた時などよりも、さらにわからない。もっともっと根元的な問題だ。
 つまり、栞がわからない。
 祐一と栞の間に、コミュニケーションが存在していたのか、わからない…。栞が空気のように捉えどころのないものに感じられてしまう。今日起きたはずの出来事が、何年も前に起きた事であるように思えてしまう。
 バカな、と言って自分の頭をどやしつけるだけの気力も生まれてこなかった。第一に祐一はひどく疲労感を感じてしまっていた。ともすると泣き出してしまいそうな不安感も感じてしまっていた。
「栞、ひょっとしてしゃべっていないと不安になったりするか?」
 この部屋に初めて栞を招いた日、自分が言った言葉が浮かんでくる。
 栞の身体と人間関係を大切なものだと認識するため…本当か嘘かわからないが、そういう大義名分の下に幾度も性行為を重ねて。「愛している」という言葉を幾度も紡(つむ)いで。
 きっと、どんな恋人同士の間でもやっているようなことだ。ひょっとすると嘘っぽいかもしれない、寂しさを誤魔化しているだけかもしれないと思いながらも、どんな恋人だってやっている事だ。
 でも、その「アリバイ性」が、いつもいつも行為の上に張り付くようになったらどうなのか?「嘘かも知れない」ではなく、「嘘だけど」が行為をしている二人に亡霊のようにつきまとうようになればどうなるのか?
 栞は、今日あの教室で、それをやってしまったのではないか…。
 なのに、栞はさばさばとして、なんでもないような顔をしている!
 こんこん。
 遠い世界から音が響いた。
 こんこん。
「…祐一」
 こんこん。
 …やっと、祐一は何の音がしているのかという事に気づく。
「…なんだ」
 ひどくしわがれた声になってしまった。祐一はごほごほと咳をして、
「名雪、なんだ?」
 言い直した。
「入って、いい?」
「ああ…」
 かちゃ。
「真っ暗だね…」
 闇の中に光が射すと、半纏姿の名雪が入ってきた。
「電気点けてもいい?」
「どうだろうな」
 我ながら変な答えだと、祐一は思った。
「じゃあ、点けないでおくね」
「そうしておいてくれ」
「うん」
 名雪はドアを開けたまま、祐一の近くに歩み寄ってくる。
「どうしたんだ?」
 祐一は寝転がった姿勢のまま問う。
「ちょっと…怖い夢見ちゃったから」
「名雪、こんな時間に寝てたのか?」
「眠かったんだよ」
「ふぅん…」
 天井に視線を戻した、気のない返事。
 名雪は光の筋をたどるようにして、ベッドの横まで歩いてきた。そしてゆっくりとベッドに腰掛ける。
「だから、しばらく近くにいてもいい?」
 祐一の顔を見ながら言う。
「俺は構わないぞ」
「ありがとう、祐一」
 相変わらず天井を見たままの祐一を見つめながら、名雪は礼を言った。
 さっきの金縛りと同じ姿勢だったが、祐一は普通に会話できるようになる。
「なぁ、名雪」
「なに?」
「怖い夢って、どんな夢だ」
「あんまり思い出したくないけど…」
「別に言いたくないならいいぞ」
 祐一はやはり天井を見ながら言う。
 名雪は少し祐一の方に身体を乗り出した。
「…すごく長いトンネルを歩いていたの」
「いかにも暗そうだな…」
 早速茶々が入る。
「でも、ずっと向こうに光が見えていたから、そんなに怖くはなかったよ」
「へぇ」
「だけど、ずっと歩いて、もうすぐ出口っていう時、ガシャンって扉がしまっちゃったの」
「どんなトンネルだ…」
「夢の中でそんな事考えないよ」
「慌てて後ろを見たんだけど、そっち側には光なんて何もなくて、真っ暗で」
「ありがちだ」
「そしたら、いつの間にか足首のところまで水が出てきていたの」
「なんだ、おねしょの夢か?」
「違うよっ!それで、ひょっとしたらこの水が段々上がってきて、溺れちゃうんじゃないかって思って、めちゃくちゃに走り出して、それでおしまい」
「中途半端な終わり方だな」
「走り出してから目が覚めるまで、結構かかったよ」
「じゃあなんでトンネルの出口の扉にぶつからないんだ」
「知らないよ…」
「しかし、いかにも悪夢って感じだな」
「うん。すっごく怖かったよ」
「そんな夢、さっさと忘れた方がいいぞ」
「ねぇ祐一」
 名雪が身を乗り出して、無理矢理祐一の真上に顔を持ってくる。
「…なんだ」
 自然と、祐一の目も名雪の顔に焦点を合わせてしまう。
「この夢の意味って、なんなのかな…」
「いちいちそんなの考えてたって、始まらないだろ」
「でも、気になるよ」
「俺は夢占いなんて信じないぞ」
「そう」
「毎朝ニュースでやってる占いと同じくらい胡散臭い」
「結構当たるよ」
「それは名雪の思いこみだろ…」
「そうかな」
「そうそう」
 名雪はそのまま、祐一の顔をじー…とのぞき込んでいた。
 最初は祐一も同じように名雪の顔を見ていたが、あまり長く続くと間が悪い。
「…なんだよ」
「祐一も、寝てた?」
「寝てない」
「………」
 名雪が祐一の顔に手を伸ばす。
「な、なんだ?」
 その指先が、祐一の目じりに触れた。
「なみだ…」
「あ?」
「祐一、泣いてたの?」
「なに?」
「ほら、なみだ」
 名雪は祐一の目じりの辺りをこする。そうすると、祐一にも何となく濡れた感覚が感じられた。
「なんで泣いてたの?」
「違うだろ。こんな体勢でぼーっとしてたから出てきたんだ」
「出てこないよ」
「そんなもんなんだ」
「そんなもんじゃないと思うよ」
「これで名雪もひとつ賢くなったな」
「そんなの覚えても嬉しくないよ…」
「感謝しろ」
 祐一は目に手を当ててごしごしと擦る。
「こすったら目に悪いよ」
「ほっとけ」
「後で、洗面所で洗ってきた方がいいと思うけど」
「大きなお世話だ…ふあ」
 何となく祐一はあくびをしてしまう。
「ふぁ…」
 すると、名雪も座った体勢に戻って、小さくあくびをした。
「眠い…」
「寝ろ」
「また怖い夢見ちゃうかもしれないよ」
「CDをガンガンに掛けながら寝ろ」
「眠れないし、近所迷惑だよ…」
「イヤホンを使え」
「眠れないのは変わらないよ」
「じゃあどうしろと言うんだ」
「そうだね…」
 今一度祐一の事をちらりと見てから、
「やっぱり、普通に寝る」
「そうしとけ」
「じゃあ、おやすみ」
「ああ」
 名雪は立ち上がって、開けっ放しだったドアの方に歩いていく。
「寝るんだったら、着替えた方がいいよ」
「まだ寝ない」
「そう」
 名雪がドアを閉め、入ってくる光が少しずつ細くなっていく。
 ばたん。
 そして、祐一の部屋は再び暗闇に満たされた。窓から入ってくる光だけでは、大した灯りにはならないようだった。
 1月30日が終わりを告げたのは、その3時間後だった。


 夢を見た。
『朝〜朝だよ〜』
 でも、この目覚ましが自分を起こすまで、夢だとは気づかなかった。
『朝ご飯食べて学校行くよ〜』
 しかも、目覚ましに起こされた瞬間、夢の中身なんて綺麗さっぱり忘れてしまった。
 カチ。
 祐一は静かに目覚ましのボタンを押し、流れてくる音を止めた。
 カーテンの隙間から光が漏れてきている。確かに今日は…
 シャーッ…
 快晴だ。
 昨日降った雪はあちらこちらにどっさりと積もっていたが、空は抜けるように水色だった。きっと、道路も除雪されていることだろう。完璧とは言えないが、外に出るにはあつらえ向きの天気だった。
 栞との最後の日は、よく晴れている。
 今日は栞との最後の日なのだ。
 栞との最後の日…
 口の中でつぶやいてみても、全然実感が湧いてこない。栞との日々に終わりが訪れるという事を忘れるのが難しかったように、栞との日々が終わるという事を理解するのもまた難しい。
 それでも今日という日は、何をしていても何をしなくても終わりを告げる事になる。
 だったら、俺は相沢祐一としてのベストを尽くす。
 そう考えると、段々アドレナリンが分泌されてきた。祐一は小走りでクローゼットの前まで行くと、中をあれこれと漁り始める。その下にある引き出しも引っ張って、今日着ていく服を思うがままに見繕う。
 コーヒーだ。
 祐一は服をひととおり揃えてから、唐突にそう思った。
 秋子さんの煎れる、とびきり香ばしいコーヒーを飲む。そうすれば何かが違ってきそうな気がする。
 それなりに厚着の服を素早く身につけると、祐一は部屋を飛び出して階下に駆け下りた。
 リビングに向かうと、いつも通りに秋子がいる。
「おはようございます」
「おはようございます。今日は早いですね」
「ちょっと用事があるんで…秋子さん、コーヒーもらえますか」
「入っていますよ」
 さすがだった。秋子はキッチンの方に歩いていく。
「どうもすいません」
 これまでこんな時間に祐一が起きる事など滅多になかったのに、秋子はしっかり準備してくれている。何が起こっても破綻無く対応している秋子の姿は、今日の祐一を勇気づけた。
 すぐに秋子はポットを持って帰ってくる。
「祐一さん、何か嬉しいことがあったんですか?」
「え?」
「なにか、うきうきしているみたいに見えるものですから」
 コポポ…とコーヒーをカップに注ぎながら、秋子はさりげない口調で訊く。
「いえ、なんだか今日はテンション高くって」
「そうですか。朝御飯はどうします?」
「お願いします」
「はい」
 また秋子はキッチンの方に消えていく。
 嬉しいことなんて…ない。むしろ、祐一をひどく困惑させるような事ばかり起こる。今日も何が起こるか、想像もつかない。
 だけど、落ち込んでいたら、笑顔で栞を見送ることなどできない。仮に笑顔が無理だとしても泣かない方がいい。仮に泣いてしまったとしても、そこには色々な泣き方がある。
 だったら、自分を迷わせるようなものは今日一日少しでも少ない方がいい。栞が演技だと言おうと、祐一にとってはやはりそっちの方がリアルに思える。
 祐一はリビングから見える庭に差し込んでくる光を見た。そこかしこに積もった雪が、真っ白に輝いている。昨日降ってきた、あの暗く重苦しい雪と同じものだとは思えないほどだった。
 そうだ。栞とは暗い部屋のベッドの中で会うわけではないし、灰色の雪が降る中で会うわけでもない。この陽光と外の空気の中で会うのだ。きっとそこなら、昨日感じたような沈み込みも起こらないだろう…。
 栞とは、きっと普通の相沢祐一として会える。その約束の時間までは、あと2時間だった。


「やっぱり先に来ていたか…」
「はい」
 約束の十五分前、駅前に赴いた祐一の目に栞の姿が映る。久しぶりに見る栞の普段着姿だったが、ストールだけは相変わらず変わらなかった。だから服のトーンもあまり変わらない。白と黒を基調とした、穏やかな着こなし。それはどこまでも栞らしかった。
「いつからいたんだ?」
「結構前からです」
「だろうな」
「もちろん持ってくるべきものは持ってきています」
 栞は大きなトートバッグの中身を見せる。そこには祐一がプレゼントした画材が入っていた。スケッチブックはほとんどバッグの口から出てしまいそうだったが。
「なんか、バッグがスケッチブックの形になっちゃってるな」
「でも、これしかスケッチブックがうまく入らなかったんです」
「もうちょっといいバッグが欲しいけどな…あいにく予算がない」
「いいですよ」
「んじゃ、行くか」
「はい」
 祐一の左に栞が来て、歩き出す。
 その顔は、本当にいつものままの栞だった。
「いいお天気になりましたね」
「そうだな、昨日はどうなるかと思ったけどな」
「そこまですごくはなかったですよ」
「みんなそう言っているのが、未だに信じられないんだが…」
「すぐに慣れます」
「そんなこと…」
 だが、確かにこの街に初めて来た時に比べれば寒さに対する耐性がついてきたような気もした。それを慣れと言うならば、そうだろう。
「あるかもな」
「そうですよ」
 栞は微笑んで同意する。
「人間の慣れって怖い」
「慣れれば、雪が降った時にもいろいろ楽しめるようになりますよ」
「って言っても、いまいちイメージが沸かないんだが」
「普段はあんまり着ないような服を着たりするのも面白いですし」
「あの雪だるまルックか?」
「違いますっ!」
「白いもこもこがついたコート着たりしたら、まんま雪だるまだと思うんだが…」
「そんなの、恥ずかしくて着られません」
「そうか?結構栞似合うと思うけどな」
「似合いませんっ」
 子供っぽさという事だけで言うなら、昨日の格好もシルエットはかなり幼児体型に近いと思うのだが…。
「栞のシュミもよくわからん」
「普通です」
「いや、それは非常に無理がある発言だと思われるぞ」
「自発の助動詞で責任回避をしないでくださいっ」
「…それも授業で教わったのか」
「はい」
 栞が意を得たり、という顔をする。
「だからってそんなの応用しなくても…」
「実生活に生かしてこそ、学問の意味が出るんですよ」
「もうちょっと建設的な生かし方はできんのか?」
「いいじゃないですか、楽しいんですから」
「…楽しいのか」
「楽しいですよ」
「ま、そうかもな」
「ええ」
 栞がそう言って祐一の左手に手を伸ばした。
「…あのな、栞」
「なんですか?」
「せめて許可を求めてくれ」
「そんなの必要ないです」
 言い切られてしまった。
 祐一の指先に、ひんやりと細い栞の指が絡む。
「知り合いに会わないといいけどな…」
 祐一は真正面を見ながら言う。
「そしたら、見せびらかしちゃいます」
 栞がぶんぶんとつないだ手を前後に振った。
「そういう子供のピクニックみたいな動かし方はやめとけ」
「これを見れば誰が見ても、楽しそうだってわかりますよ」
「頭が温かそうだって思われる気もするが…」
「そんな表現、嫌いです」
「…なんかしっくり来ない言い回しだな」
「ほっといてください」
「投げやりだな…」
「細かいことを気にしていると、女の子に嫌われますよ」
「またわけのわからんことを…って、そういやどういう道で行くんだ?駅から直行するんだったら、俺は道がよくわからないぞ」
 祐一はきょろきょろと辺りを見回しながら言った。今歩いている道は駅から水瀬家までのルートと同じだが、この後どうなるかまではわからない。
「駅から商店街までの道がわかって、商店街から公園までの道がわかるなら行けるんじゃないですか?」
「いや、それは栞が案内してくれればいいんだが、直行するのか?途中で昼飯とか買っていくなら、それも考えとかないといけないだろ」
「大丈夫です、露店が開いています」
「開いている時と開いていない時があるって言ってなかったか?」
「今日は日曜日ですし」
 栞はすぐ答える。
「前行った時は…確かに平日だったな」
「お休みの日なら、いつもお店が出ていますよ」
「でも、別によそで買っていくのでもいいぞ?」
「やっぱり、外で食べるなら屋台のお店とかで買ったものを食べた方が楽しいと思いますよ」
「それもそうだな。高いけど」
「値段に楽しさ代が含まれているんですよ」
「なんかアコギな商売だな」
「需要と供給があるから、いいんじゃないですか?」
「…それも学校か?」
「これは独学です」
「変なもの独学してるな…」
「ちょっと本で読んだだけです」
 栞はそう言って、祐一の手を引っ張りながらT字路を左に曲がる。
「こっちなのか」
 商店街や水瀬家に向かうなら右だ。
「ええ、駅からならこっちの方が近いんです」
「OK。道案内は頼んだ」
「わかりました」


 20分ほど歩くと、公園にたどりつく。
「ここだっけか?」
「そうですよ」
「なんか違うみたいに見える」
「逆側の入り口ですからね」
「確かに、こんなでっかい公園があちこちにあったら困るけどな」
 東京なら、これだけの公園があれば何かの名所になっているだろう。
「それもいいと思いますよ」
「え?」
「こういう公園があちこちにあるっていうのも、いいと思いますよ」
 栞は祐一の顔をのぞきながら言う。
「土地の利用方法としては正しくない気もするがな」
「だったら、山奥に作ればいいんですよ」
「あのな」
「都会からバスをいくつも乗り継いで、途中からは歩いて行くんです」
 栞は公園に入る石段を下り始める。祐一も一緒に歩みを会わせた。まだ手はつないだままだったのだ。
「なんで最後までバスじゃないんだ?」
「車の入れる道路がないんですよ」
「はぁ…」
「それで、ずっと急な坂道を上っていって、途中でぱっと目の前が開けてこういう公園がいっぱいに広がっているんです」
 とん、と栞の足が石段から続く赤レンガの道に着地する。一瞬遅れて祐一の足も着地する。
「不便だな」
「日曜日には、露店が出ています」
「そんな不便な所にある露店、客が来なくて商売上がったりだと思うが…」
「祐一さん、現実的過ぎますっ」
 ようやく抗議の声が上がった。
「んなこと言っても…ごく当然の反応だと思う」
 本当にごく当然であるというような声。
「そんなことないです」
「まぁ妄想はそれくらいにしておいてだ」
「なんでいやらしい方に話が進むんですかっ」
「別にそんな事言った覚えはないぞ」
「それにしても妄想って言い方はないです」
 栞はいつものように頬を膨らませる。
「間違ってはいないぞ」
「言い方というものがあります」
「じゃあ…無謀な都市計画とか」
「祐一さんっ!」
 ぎゅぅと祐一の靴を踏む。
「痛いって」
「当然です」
 ぎゅぅぎゅぅと踏みつける。
「わかったから、足をどけてくれ」
「謝らないとだめです」
「すまん。悪い。ごめん。申し訳ない」
「適当に並べてもだめですっ」
「んなこと言われても」
「誠心誠意謝らなきゃだめです」
「うーん…」
 祐一はしばらく考えた。
 そして、唐突に栞の頭に手を伸ばして髪の毛を指で梳かせる。
「きゃ…」
 栞は祐一の靴に足を乗せたまま、びっくりした声を出して上を向いた。
「よしよし」
「そ…そんなのごまかしですっ」
「悪かったって」
 くしゃくしゃと髪を乱す。
「わ、そんなに乱暴にしたら本当にだめですよ」
 栞は祐一から飛び退くと、乱れた髪に手ぐしを一生懸命に入れる。確かに祐一のせいで前髪は思い切り上げられておでこが出ていたが、数秒の後には元の髪型に戻ってしまった。
「相変わらず優秀な髪だな」
「ひどいです、枝毛できちゃったかもしれませんよ」
「そんなに簡単にできるのか?」
「わかりませんけど、普段は枝毛なんて一本もないのが自慢なんですから」
「そしたら、これは枝毛初体験かもしれないな」
「嬉しくないですっ」
 栞はぷんとそっぽを向く。
「まぁまぁ、アイス買ってやるから」
「それは当たり前です」
「当たり前なのか…」
「自分が何をしたのか、まだまだ自覚が足りません」
「スキンシップ、スキンシップ」
「そんな事言う人、嫌いです」
「…確かに、今のはオヤジっぽかったか」
「自覚があるならしないでください」
 言いながらも、栞は祐一の横に戻ってくる。
「で、どこで描くんだ?」
「祐一さんを描くならどこでもいいですけど」
「まぁ、たまには風景画もいいのではないかと思ったりするが」
「…そこはかとなく嫌がってません?」
 栞は現代語から微妙に逸脱した。
「俺の絵はこないだ描いてもらったのを大切に取っておくから、今度は風景画という事で完璧だ」
「それとなく誤魔化されたような気がします」
「俺は風景画の方が得意なんだ」
「別に、いいですけどっ」
 いじけたような表情で地面を見ながら、また祐一と手をつなぐ。
 祐一はなんだかまた頭を撫でてやりたくなったが、やめておくことにした。
「じゃあ、どこを描くか…」


 祐一と栞はしばらく公園を歩き回った結果、芝生が広がっている一角にあったベンチに陣取る。噴水は描きにくいということで敬遠された。
 と言うことで簡易絵画教室が始まる。
「…あのさぁ栞、ひょっとして箸の持ち方で注意されたりしないか?」
「嫌な事言わないでくださいっ」
 栞はスケッチブックの一点に目を落としたまま怒る。図星のようだった。
「だから、もっと柔らかく持たないと上手くいかないって」
「わかってますけど」
 栞は鉛筆を持ち替えようとして四苦八苦している。
「まぁいいや、その持ち方でも」
「そうします」
 何となく、手全体からぎごちなさを発散しているような持ち方だった。
「でもそんな持ち方じゃ普段文字を書くときも大変だろ?」
「普段はもう少し楽に持てるんですけど、なんだか絵を描くときは緊張しちゃって」
「じゃ、文字を書いているつもりで持ってみるんだ」
「それでうまくいくんだったら苦労しませんっ」
「いや、逆ギレしてる場合じゃないだろ」
「そんな事言っても仕方ないです」
 栞はまた鉛筆を持ち替えようと四苦八苦を始める。
「わかった。わかったから持ちたいように持て」
「そうします」
 と言うことで4Bの鉛筆が紙の上に滑り始める。

「その線、強く描きすぎだろ」
「ここが強調ポイントなんです」
「俺には力加減を間違ったようにしか見えなかったが」
「違いますっ」

「あのさ、こっから見てあの木とあのベンチ、サイズ的にどう見てもベンチの方がでかいだろ」
「うー、木の方がベンチよりもすごい存在感あるから、いつの間にかこうなっちゃったんです」
「だってこういう風に線引いていって…ほら、全然位置関係おかしいぞ」
「印象主義ですっ」
「………」

「それ、なんだ」
「雲です」
「お前…薄雲の境界線くっきり描いたら、空の上に巨大なワイヤーが出現したようにしか見えないぞ」
「………」
「鉛筆横に寝かせて、淡く表現しとくとか、指で伸ばすとか」
「…消しゴム、取ってください」
「ここまで強く描いちゃった線、きちんと消えるのか…」

「…はぁ」
「…ふぅ」
 2時間後、祐一と栞はそれぞれ一つのアイスを手にしながらため息をついていた。
「…お互い、よく頑張ったな」
「まだ完成してないです」
「栞、その根気は賞賛に値するぞ」
「祐一さんにも頑張ってもらいます」
「わかったよ…」
 とりあえず公園のごみ箱には3枚ほどの破られた画用紙が放り込まれていた。栞の脇に置かれているスケッチブックは、見事なまでに真っ新(まっさら)である。
「後半戦に向けて、もっとエネルギー補給しておくか?」
「うーん…」
「腹は減ってないのか?」
「アイス食べたら、かえってお腹すいちゃったかもしれません」
 木のスプーンをくわえながら栞は答える。
「じゃあもうちょっとなんか買ってくるか」
「そうですね」
「あの店、何時くらいまで開いてるかな」
「たぶん、4時か、5時くらいじゃないですか」
「じゃあ、今少し買いに行って、そのあとまた一段落したら買いにいくか」
「長期戦ですね」
「今日はとことんまでつき合うからな」
「ええ」
 どういう意味なのか、という事も問わずに栞は笑みながらうなずいた。


 二人はそうして、ずっと絵を描いていた。何回も描いては破り捨てて描き直し、時には祐一が多少手を加えたりしながら。芯が短くなったり折れたりする度、鉛筆削りのカスがベンチの下にどんどん溜まった。鉛筆も、ついに三本目が登場してくる。
 時折休憩をはさみつつも、栞はただただ必死になって絵を描いた。鉛筆の持ち方が悪いせいなのか、右手の中指にペンだこが出来たりもしたが、ハンカチを巻いて応急処置をした上で描き続けた。
 段々と日が傾き、風が寒さを増し、空の色が茜に染まり、やがては闇に落ちていく中でも二人は絵を描く作業をやめはしなかった。
 最初からこの公園に人間はあまりいなかったが、もはや祐一と栞しか残っていないかもしれない。遠くから聞こえてくる噴水の小さな音だけが静かに響いていた。
 その中…
 しゅっしゅっ、と音を立てて栞の鉛筆が画用紙の上を滑る。最初に比べれば、非常に滑らかな動きだと言えるだろう。
 午後四時に六枚目を破り捨てたのを最後に、ここ三時間ほどの間は一枚の絵に集中して描けている。その七枚目の画用紙は隅から隅まで鉛筆が走らされ、鉛筆のラインと陰影に彩られていた。幸い灯りの真下だったので、光源にはそれほど苦労していない。
「…うん」
 栞が空の陰影を塗り終えたとき、祐一が小さく声をかける。
「………」
「いいんじゃないか…すごく」
 栞は呆然とした目で自分の描いた絵を見つめた。
 そこには、多少ぎごちないタッチが残る中でも、はっきり公園の中とわかる情景が描き出されていた。鉛筆だけで描かれた、モノクロの公園。
 空の様子は夕暮れになりかかる時から日が沈んだ時までの移ろいをまんべんなく表現しているといった感があったが、決して不自然ではない。
「あ…」
 栞が鉛筆をぽろっ、と落とす。
「おっと」
 かちゃ…と小さな音を立てて地面に転がったそれを、祐一が拾った。
「大丈夫か?」
「あはは…ちょっと気が抜けちゃったかもしれません」
 栞はさすがに疲れた顔をしている。それでも嬉しげな色を湛えた瞳で自分の絵を見ていた。
「でも、ほんとによく頑張ったな」
「できれば、祐一さんの似顔絵みたいに色もつけたかったですけど」
「いや、これはこれでいい」
「そうですね…」
 栞はトートバッグを見る。中には、結局使うことの無かった、祐一のプレゼントした絵の具が入っているはずだ。
「ありがとうございました」
 座ったまま、深々と礼をする。
「いや、描いたのは栞だろ」
「いえ…」
 それ以上は句を継がず、栞はスケッチブックを持ったままでベンチから立ち上がろうとした。
「…腰、痛くなっちゃいましたね」
 ちょっとだけ顔をしかめて栞が言う。
「ずっと描いてたからなぁ」
 祐一も立ち上がった。
「あー、俺も痛い」
「ちょっと、歩きませんか?」
「いいな…」
 荷物を手早くまとめると、手をつないで二人は歩き出した。
 真っ暗な闇の中、所々に立てられた灯りだけに照らされたの公園。自然と、二人の足は噴水の方に向く。
 決して狭くない公園。噴水のところにたどりつくまでにも、ある程度の距離は歩かなくてはならない。
「………」
「………」
 そして噴水までたどりついた二人は、しばし何も言わずに薄明かりに照らされた噴水を見ていた。天空に上った月が水面に映り、絶えずゆらゆらと揺れている。水の奏でる音は、冬にも拘わらず涼やかという印象があった。寒さの中でも、一本芯を通した爽やかさが存在しているのだ。
「綺麗ですね」
「そうだな」
「私が、噴水も描けるくらい絵が上手だったらよかったんですけど、これは仕方ないです」
「今日描けた絵で十分上手いよ。栞は」
「祐一さんが褒めてくれるなんて、雪が降ってくるかもしれません…」
「人聞きが悪いな」
「事実ですから」
 そう言うと、栞は一度手を離してトートバッグからまたスケッチブックを取り出す。そして、表紙をめくってさっき描いた絵を見つめる。
「この絵は、私が持っていたいです」
「そうか」
「本当は、祐一さんにあげたいですけど…こんな絵、もう一度描けるかどうかわかりませんから」
「いいよ、俺は栞にもらった似顔絵があるから」
「出来れば、似顔絵も描き直したかったですけど」
「でも、似顔絵を描いている時に横から『もっとハンサムに描いてくれ』とか言うわけにもいかないしな」
「それもそうですね」
 想像したのか、くすっと栞が笑う。
「大切にする。栞が描いた絵」
「はい」
 返事をしながら、もう一度自分の描いた絵を見る。
 そのまま、ずっと栞は動かなかった。まるで、栞の目が自分の描いた絵に吸い込まれていってしまいそうな、そんな感じすら受ける。
 どこか遠くを見ていた。スケッチブックの中の絵を見つめながら、その奥に広がっている別の世界を憧憬しているような瞳だった。
「栞?」
 不安なものを感じ、祐一が声をかける。
「…祐一さん」
「ん?」
「ひとつだけ、訊いていいですか?」
 目はスケッチブックを見たまま、栞は掠れ気味の声を紡いだ。
「ああ」
 脳天に虫が這い込んでくるような感覚を感じつつも、祐一は腹に力を入れて答える。
「1週間前のこと、後悔してませんか?」
「約束しただろ?栞」
 祐一は、栞に向かって大きく一歩踏み出した。
 がっ、と音を立てて靴の裏が地面を叩いた。
「俺は後悔なんてしていない」
 そう言って、右手で栞の左手を握ろうとする。そのぬくもりが全てを物語ると祐一は信じた。
「………」
 しかし、栞はごく近くまで迫った祐一の手を握ろうとしなかった。何か別の生き物を見るような目で自らの左手を見ている。
「栞…?」
 祐一は、背筋に粘りつくような悪寒を感じた。
 はっとしたような表情になって、栞が顔を上げる。
「あ…あはは…ごめんなさい、ちょっとぼうっとしちゃいました」
 そう言って栞は笑った。そして、すぅと息を吸い込む。
「もう、ほとんど消えちゃいましたけど…」
 言いながらかがむと、スケッチブックをゆっくりと地面に置く。トートバッグも肩から滑らせて地面に置く。
 そして、栞は自らの左の袖をめくった。
「私、自分の手を、カッターナイフで切ったことがあったんです」
「………」
 祐一は言葉を継がなかった。
 一瞬、一瞬が奇妙に遅くなるような感覚を感じながら、それでも動揺しまいと二本の足で身体を必死に支えていた。
「あの日、祐一さんと最初に会った日です」
 栞は袖から手を離す。めくられていた生地が元の位置に戻り、栞が示していた手首も見えなくなった。
「商店街で、いろいろな物を買って」
 栞は腰の後ろにきゅっと両手を回して、夜空を見つめながら語りだした。そして夢遊するかのように、一歩一歩と歩く。
「必要もないのに、いろいろな物を買って…それで最後に、コンビニでカッターナイフを買って家に帰ろうとしたんです」
 祐一は栞の動きを目だけで追った。
 なんだかひどく遠い物を見ながら微笑んでいるかのような表情をして、栞は空に光る星々を見つめている。
「そして、祐一さんとあゆさんに会ったんです」
「………」
 祐一は初めて栞に会ったときの事を思い起こした。
 学校で、商店街で、水瀬家で栞の見せた顔とはまるで違う、怯えにも似た表情。だから、学校の中庭で再会した時、祐一は同じ少女なのかと疑うほどに違和感を感じたのだ。でも、ずっと栞に会っているうちに、なんだか今の栞の方が当たり前のように思えてきて…
 そんな違和感は、記憶の隅に追いやられてしまっていたのだ。
「それで、家に帰って…」
 いつの間にか、栞は祐一の背後に回り込んでいた。
「たったひとりみたいな部屋でした」
 祐一は後ろを振り向く。栞は腰の後ろに手を回したまま、向こうの方を見つめていた。
「カッターナイフを持って、手首に当てて」
 栞は詠唱するような言葉を続ける。
「すぅっと呼吸して、手に力を入れたら、左手に赤い筋が走って」
 そして、再び祐一の方をくるっと向く。
「赤い、筋が走って」
 栞は不自然なほどの笑みを浮かべて祐一の方を見つめていた。
「赤い、筋が走って…」
 祐一は何も言えずに栞の事を見つめる。
「赤い…筋が…走って…?」
 ………
 長い沈黙が下りた。
「あかい…すじ…が…はしっ…て…」
 顔に凍った笑みを張り付かせたまま、栞は同じ言葉をつむいだ。思い起こしたような噴水の静かな音が、栞の言葉にかぶっていく。
「…あ…か…い…すじ…」
「…栞っ」
 祐一は思わず栞に歩み寄る。
「…あ…あれ…?」
 栞は顔を引きつらせながら、手をぶらんと垂らして立ちつくしていた。
「栞…もういい」
「…え…あは…あは…あはは…」
 乾ききった笑い。
「…お…おかしいですよ…こんなの…」
 ごく近くまで迫った祐一の事が見えないかのように、栞は言う。目の焦点がまるで合っていなかった。
「言える…はずなんです…あの日のこと…ゆういちさんに…」
「いい!もういい、栞!」
「私…手を…切って…リストカッターちゃん…だったって…言えなきゃ…なんで…変です…もう…ずっと…おぼえていて…ちゃんと…言えなきゃ…さいごに…ちゃんと…言えなきゃ…」
「栞っ!」
 祐一は黙って見ている事が出来なかった。
「………ぁ………」
「栞…栞っ!」
 何度も、何度も呼びかける。
 呆然とする栞の身体は、ありたけの力で抱きしめても足りないほどに小さく、頼りなく、虚ろで、それでもこのまま逃してたまるかという想いで祐一を衝くほどに愛しく、愛しく、愛しかった。
 そして震えていた。
 孤独な寒さに震える小動物のように、栞の身体は小刻みで絶望的なふるえを続けていた。カタカタ…と歯が音を立てているのが、触れあった身体を通じて直接伝わってきた。
 胸元にうずめたその顔は…きっと、制御できなくなった涙腺から尽きることのない涙があふれているはず…
 その証拠に、栞はひっきりなしにしゃくり上げていた。泣いているのだ。祐一の前で一度も涙を見せる事がなかった栞が泣いている。
 だが、声は上げていなかった。身体のふるえは延々と続いたが、祐一の胸に顔を隠して、泣き顔も泣き声も見せていなかった。
 そんな状況であるにも拘わらず。祐一は、心が静寂に満たされていくのを感じていた。栞がさっき何を言ったのかすらよく覚えていない。心の中にノイズ的なものは一切存在していなかった。つるりとした、とても滑らかな心持ちだった。
 栞と幾度交わっても、話し合っても、感じることの出来なかった気持ち…
 ひょっとすると、それは祐一の弱さの表出であったかもしれなかった。泣くという、非常にあからさまな状態を媒体にして、栞との通い合いを錯覚して安堵の気持ちを味わっているだけかもしれなかった。
 でも、栞に対する優越感などというものではない。そして、今自分のやっている事は間違いだとは思わない。それだけは保証できる。
 だから、こうしていよう。
 ずっとずっと、栞が泣きやむまで、こうしていよう…
 その先に永遠めいた観念を夢想しながら、祐一はただ栞を抱きしめた。


 栞の身体のふるえが止まり、しゃくりあげなくなったのはいつ頃だっただろうか。その後も祐一はずっと抱きしめたままでいた。
 はるか遠くで何かのサイレンが聞こえてきたのをきっかけに小さく栞に声をかけると、栞は自ら祐一から離れた。
「………」
「………」
 真っ赤に泣きはらした目をこすりながら、栞は夢から醒めたような顔をして噴水の近くにあったベンチに腰掛けた。
「なぁ、栞」
「………」
「すこし、あったかいもんでも飲もう。自販機、確かあったろ」
「わたし」
 こほ、こほと咳をする。栞の声はひどくしわがれてしまっていた。
「ちょっと何か飲んだ方がいいだろ。その方がしゃべりやすくもなるし、落ち着くって」
 …こく、と栞はうなずいて立ち上がった。
 祐一は自ら栞の右に回り、栞と手をつなぐ。
「あ…」
「なんだ?」
「荷物が」
「あ、そうだったな」
 トートバッグとスケッチブックが、少し離れたところの地面に置きっぱなしになっていた。
「大切なもんだからな…きちんととっておかないと」
 手をつないだまま、祐一は残された荷物に近寄って拾い上げた。まずトートバッグを栞に渡す。それから、ぱんぱん、と砂埃を払ってスケッチブックを栞の持ったトートバッグに突っ込む。片手で持った布のトートバッグにスケッチブックを入れるのはやりにくい作業だったが、祐一は無理矢理それを突っ込んでしまった。
「んじゃ、いくか」
 祐一が促し、二人は歩き出す。
 何も語らない。ただ手をしっかりとつないで、視線すら合わせずに、誰もいない夜の公園を歩いていく。聞こえてくるのは、段々と遠ざかっていく噴水の音だけだ。
 祐一はひどく奇妙な気分を感じていた。高揚感のような、自尊心のような、安堵感のような、寂寥感のような。それらを混ぜ合わせて、それでもやはり気分的にはプラスであるような。
 よくわからなかった。
 栞が泣いたという事に、優越感を感じているわけではない。それは泣いている時もそう思ったし、今もそう思う。
 そして、栞との時間はもうあと残り少ない。だと言うのに焦りも何もなく、妙に落ち着いていられる。力を入れすぎることもなく躊躇う事もなく、栞の手を握っていられる。
 結局、祐一はとても静かな微笑みを浮かべて歩いていた。今の顔を栞が見ているのかどうかはわからない。ただ、無表情であるよりも、悲しい顔をするよりも、そうしている事の方が良いような気がしたのだ。
 何のために…何のために苦しんできたのかわからない。一番最後になって、一番心が落ち着いてくるのだから。
 そういう思考が、自動販売機の前に来るまで頭の中で摩擦もなく回転していた。
「何にする?適当に選んでいいか?」
「…ええ」
 小さな声で栞が答える。
 祐一はつないだ手を離して自動販売機に近寄り、砂糖の入ったあたたかいストレートティーを二つ買った。缶の落ちてくる、ごとんという重い音がどこか懐かしい響きを帯びている。
「ほら」
 祐一の差し出した缶を栞は無言で受け取った。
 ぷしゅ、とプルタブを祐一が開けたのに続いて、栞もプルタブを開けようとする。しかし栞は一度では上手く開けられず、二・三回開けるのに失敗してからプルタブを上げる事が出来た。
 祐一はプルタブを開けたまま口にせず、栞が缶紅茶を飲み始めるのをじっと見つめていた。それに気づいているのか気づいていないのか、栞はゆっくりと缶の飲み口に唇を当てていく。そして、こくん…と小さな音を立てて紅茶を飲んでいった。
「………」
 なんだか、栞の小さな身体に比して500mlのスチール缶はあまりに大きすぎる気がする。そんな風に見えるようになってしまったのは何故なのだろう?
 そう考えながら、祐一は思いだしたように缶紅茶を口にする。
 糖分のたっぷり含まれた紅茶が、身体に染みわたっていくような感覚があった。それで、祐一は何時間もの間栞と二人で必死になって絵を描いていたという事を思い出した。結局、夕方になってもほとんど休憩も入れずに絵を描いていたのだ。
 そうやって何も考えずに二人で絵を描いて、達成感のようなものを感じながら噴水の所で語り合おうとして。そこで栞が突然泣いた。
 いや、その前に栞が一人で行った告白があったわけだが…。祐一は、あの時栞がどういう順番で何を言っていたか、細かいことはほとんど覚えていなかった。
 ただ「リストカッターちゃん」…栞がうわごとのように言っていた言葉の中に、そういう言葉があった事ははっきり覚えている。断片的な単語の中で、変に浮いた滑稽な響きのある言葉だった。栞が普段使っている言葉からも乖離しているように思える。
 祐一は口に缶をつけて紅茶を飲んでいる栞を見つめた。
「栞」
「はい」
 栞は缶を口から離して答える。だいぶしっかりした響きが戻ってきていた。
「気分、どうだ?大丈夫か?」
「ええ、もう」
「そっか」
 だが、普段とはまるで違う、言葉少なな返答だ。
 祐一の頭に、再び思考が戻ってくる。
 「リストカッターちゃん」…
 自殺志願者を明らかにバカにしている響きを持った、そういう言葉なのは間違いないだろう。栞はそれを自らに用いた。はっきりと自嘲した。
 自嘲して…動揺して、泣いた。
 なんで、栞はそんな事をしなくてはならなかったのだろう?
 そこまで考えて、やめた。
「栞」
「はい」
「夕飯、食べに行こう。奮発するぞ」
 祐一はパンッ、とズボンの財布を叩いて気合いを入れる。小気味のいい音が闇の中に通っていった。
「どうも、ありがとうございます」
 栞は、どこか憂いのある表情を浮かべて…それから、にっこりと微笑んだ。


 歩いていく道でも、やはり栞は静かだった。
 祐一はそれに対して何をも問うこともなく、公園にいた時と同じように落ち着いた素振りで栞の手を握りながら歩いていった。
 何も事情を知らない人間が見れば、後輩の大人しい少女が恥じらいながら先輩である恋人と手をつないで歩いている、程度に見えるだろう。仮に、本当にそうであったとしても特に違和感はないはずだ。多弁な姿と無口な姿、どちらを当てはめても不自然な印象はないように思える。
 祐一は、記憶をたどりながら商店街へ向かった。祐一にとっては一度しか来たことがない道だったが、それほど複雑な道ではない。数十分の後には、二人は商店街の入り口までたどりついていた。
「…今、何時くらいなんでしょう」
「そうだな。八時か、九時ってとこか。ちょっと飯時には遅いかもな」
 商店街には買い物客の姿も少なくなってきている。少なくとも、主婦達が夕飯の買い物をしている時間帯には見えない。
「でもまぁ、すいてていいだろ」
 祐一達が入っていったのは、祐一が商店街を歩いている時に見つけていたイタリアレストランだった。
 こんな商店街にある店なのだから高級感はあるはずもないが、名雪に祐一が聞いたときはそこそこの味だと言っていた店である。
「ということで、何を食べてもOKだ」
「ええと…」
 しかし、栞と祐一でいろいろと悩んだ結果は結局ピザやスパゲッティだったりする。飲み物もジンジャーエール。多少気が利いているものといえば、最初に出てきたチーズのサラダくらいだ。
 そういう、まるきり高校生なディナーになりながらも、祐一も栞も出てきた料理を美味しそうに食べていた。
 そして最後に頼んだアイスをそれぞれ食べながら、おしゃべりする。
 何の他愛もない話だった。特に抑揚のある話でもない、いつものような掛け合い漫才でもない。今日書いた絵や明日からの事など、全く出てこない。非常に透明感のある会話がただ流れていった。会話のテンポも非常にゆっくりで、互いが順番に言葉を交わしていくようなものだった。
 食べるのが遅くて溶けてしまいそうなアイスを、最終的には3種類ずつ味わった。アイスだけでメインディッシュの半分ほどの値段。
 やがて閉店時間を迎え、祐一と栞は夜も更けてきた商店街に出ていった。
「もう、遅くなっちゃいましたね」
「そうだな」
 どちらからともなく二つの手が近づき、つながれる。
 互いの吐く息が白いのを、しばらくの間見つめていた。
 そう、そんな事を忘れていた気がする。この北の地では、外に出れば吐く息は常に白く形を持って現れるのに。祐一は、栞の吐く息も、祐一が吐く息も、いつも白かったのを忘れていたような気がしていた。
「…寒いか?」
「大丈夫です」
「そっか」
 祐一は、今出てきた店の閉店時間を思い起こしていた。入り口にあった木製の看板に、凝った字体で記されていた時間は23:00。
 もう、商店街の店はほとんど閉まっている。コンビニだけが皓々とした光を放っていた。
「栞」
「はい」
「家まで、送ってく」
「はい」
 栞は短く答え、きゅ…と祐一の手を強く握った。
 息は、やはり白いまま、闇の中に生まれて消えていく。風は吹いておらず、わだかまった気体は極めてゆるやかに揺らいでいた。
 そして二人は歩き出す。
「………」
「………」
 何もしゃべらない。たん……たん……と地面のアスファルトをスニーカーが叩く音がよく聞こえた。
 すれ違う人は全くいないわけではなかったが、まばらだ。店に入った時にはまだいた若者達の姿も少ない。店が閉まればいても仕方がないという事なのだろう。それぞれの家や恋人の家に帰っていったのだ。
 歩き方はこの上なく遅い。
 二人して夢遊しているようなスピードだった。目的を持って空間の上を進んでいくという歩みではない。むしろ、二人が時間の上を歩んでいるスピードの方が速いのではないか…そんな事を思わせるほどの遅さだった。
 それでも、歩いていく内に商店街を抜ける。
 商店街を抜けてから、進んでいく道はいつもの通学路につながる道だ。栞と学校からここに来るときにも、幾度となく通った道である。
 それほど広くはない道だった。車が行き交う事は出来ないだろう。現に、それを示す交通標識が出ている。
 そういう標識のように、普段気にもしていないような物にひどく気を惹かれた。別に栞に気が回らなかったわけではない。栞のことを思う度、その風景としての周りにある品々が妙に繊細な形で視覚に訴えてくるのだ。暗い路地に浮かび上がった、古めかしい垣根も、家の庭に植えられている小さな庭木も、表札も、道の隅の小石さえも。全てが栞と祐一を包んでいるものであるかのように感じられた。
 その道を抜けた時、ちょうど一台の車が低いエンジン音を立てて通学路を水瀬家の方に走っていく。ライトが眩(まぶ)しく、祐一は眉をしかめた。
 そして、この通学路を学校の方に少し戻ると…香里が登校してくる時に、歩いてきている道がある。そこまで20mもない。いかに遅いペースで歩いているとは言え、たどりつくまで数分とかからなかった。
「………」
 祐一は足取りを止めてその道をのぞきこむ。最初、この街に引っ越してきて間もない頃、名雪と一緒にここで香里と会ったのが嘘のようだ。街灯が少ないせいもあるかもしれないが、恐ろしく暗く見えた。
 一度も歩いた事がないその道に、祐一は足を踏み入れる。商店街と通学路をつないでいる道と同じような、あまり広くない道だ。
 毎朝歩いている道からひとつ折れただけなのに、祐一は全く違う街に出てしまったような気がした。後ろを振り向いた時に、自分がこれまで住んできた街があるのかどうか自信がない。
 そんなバカな事は、あるはずがないのだが。
「…祐一さん」
「え?」
 栞が突然祐一を呼んだ。
「ここ、です」
 小さな、小さな声。
「…なんだって?」
「ここが、私の家です」
 祐一は慌てて栞の方を見た。
 栞の指先は、道の左側にある一軒家を指している。どこにでもありそうな、普通の二階建ての住宅。構造で言えば水瀬家とほとんど同じかもしれない。その表札には、確かに「美坂」が記されていた。
 祐一は後ろを振り向き、道が少し曲がっていたことに気がつく。だから、ここから直接は通学路を目にする事は出来ない。とは言え、
「こんなに、近かったのか…」
 うめくように祐一は言った。
「そうですね…」
 栞が地面を見ながら言う。
「近いな」
「近いです」
「…ちょっと、残酷かもな」
「そうかもしれません」
「だな」
 祐一は、やや打ちひしがれながら空を見つめた。星は出ていない。いつの間にか、随分と曇ってきていたようだ。
「雪、降るんだっけ」
「今晩から、雪だって天気予報で言ってましたけど」
「ま、今晩って言ってもいろいろあるからな」
「そうですね」
 確かに、そうだ。どこからどこまでを時間の区切りと見なすのかは、人の自由である。
「でも」
 栞は言った。
「誰が決めたのかはわかりませんけど、やっぱり、一日の切れ目は普通ひとつです」
「そうかもな」
「ええ…」
 栞は祐一からすっと手を離す。
「だから、もうすぐ、私は16歳になるんです」
「ああ」
 祐一の手はつないでいた時のままの形で、宙に静止していた。
「そうだな」
「だから、お別れです…祐一さん」
 栞は祐一から正確に一歩距離を取り、まっすぐ祐一の事を見た。
 祐一も、その目を見返す。二つの視線が、音も立てずに交錯する。
「………」
 栞の、ピュアーな光を湛えた瞳。それが、祐一の「何か」に働きかけた。
「…飲み込めないな」
 ぽつん、と祐一が言う。
「なんで、栞と俺が別れなきゃいけないのか、飲み込めないな」
 ひとりごとのような言葉だった。栞を責めているわけでもない。他の誰かを責めているわけでもない。ただ、祐一は栞と別れなくてはならない事をこの上なく理不尽だと感じた。
「二人で、決めたことですから」
「でも」
 祐一は小さく歩み寄って、栞の額にそっと手をあてがっていった。
「すごく、健康だよな」
「今は」
「いつも元気で、減らず口を叩くのがアイスと同じくらい好きで、髪の毛がさらさらで、えっちの時は敏感で」
 やはりひとりごとのような台詞。
「そんな栞が、なんで病気なんだろうな…」
 詰問する口調ではない。ただ悲しそうな口調だった。
「…わかりません」
 栞は額に手を当てられたまま、祐一の目を見る。
「私にも、いつどうなるのか、全然わかりませんけど」
 祐一も、栞の目を見た。
「でも、16歳の誕生日を迎える事ができないとお医者さんに言われていたのは本当ですし、病気で学校に行かせてもらえなかったのも本当です」
「なんの病気なのか、やっぱり教えてくれないのか」
「…忘れちゃい…ましたから…」
「おかしいよな…」
 祐一は栞の額から手を離し、だらんと身体の横に垂らす。
「それでも病気なんだから」
「ええ」
 栞は虚空を見つめる。
「私も、おかしいと思います」
「はは…」
 祐一は自嘲めいた笑いを浮かべる。
「変な話さ、栞がもっとはっきり病気だった方が、俺は納得したのかもしれない」
「私も…そうかもしれません」
 栞は小さくうなずいた。
「俺、栞の事がすごく好きなんだ」
 突然祐一が、今さらと言った感の台詞を吐く。
「前から好きだったけど、俺は今の栞がもっともっと好きなんだ。栞が今日いろいろあったのをどう思っているか知らないけど、俺は栞の事が前よりもわかったような気がしたし、それが本当かどうかこれからもっと確かめたい」
「………」
「最初は、栞の事を好きなままで終われるから良かったって思った。最後の最後で、ますます栞の事を好きになれて良かったって思った。でもやっぱり、なんで別れなきゃならないのかって考えちゃうと割り切れない」
「祐一さん…」
 栞が、言葉に微かなつらさを滲(にじ)ませる。
「悪い…でも、きっと、栞もそう思ってると思ったから、こんな情けない愚痴も言いたくなったんだ」
「………」
「言って後悔しない愚痴なんて無いと思うけど、この愚痴言わないと後悔しそうだったから。どうせ後悔するならって」
 祐一はそこまで言って、ふぅっとため息を吐き出す。
「土壇場に、俺って弱いんだな」
「そんな事ないです」
「いや。一番男らしくならなきゃならない時に、こうなっちゃうんだからな」
「男らしさとか女らしさとか…そんなの、関係ないと思います」
 栞は祐一に近寄り、両手を広げて祐一の事を抱きしめた。
 ふわりとした温度と、栞の身体の柔らかな感触が伝わってくる。
「だから、もう…」
 祐一の胸に顔をうずめたまま、短く栞が言った。
 しばらくの間があった後、祐一も腕を栞の背中に回す。
 それは、すぐに固い抱きしめ合いになっていった。
 深夜の住宅地の中での、静寂に満たされた抱擁。見ている人間など、誰もいない。悲劇的な結末であるにも拘わらず、その場はあまりにも日常的だ。そんな、相沢祐一と美坂栞の演出なき抱擁。
 それが、別れだった。


「………相沢君っ!」
「…?」
「相沢君っ」
「香里…」
 だっだっだっ、という駆け足の音が近づいてきていた事に、祐一は声を掛けられるまで全く気づいていなかった。こんな深夜に走ってくる人間がいるとすれば、祐一を追いかけてくる人間しかあり得ないだろうに。
 あるいは、「追いかけられる」などという行為に全く頭が及んでいなかったのかもしれない。確かに、今し方大きすぎる別れを経験してきた人間に「追いかけられる」事を予期しろと言っても難しいだろう。今、祐一の頭はほとんど空っぽになっていた。
「ちょっと…いい?」
「どうしたんだ…一体」
 香里は、どう見ても寝ていた格好に無理矢理コートやマフラーで防寒してきたという感じだ。コートの下はただのパジャマかもしれない。
「そんな格好、風邪引くぞ」
「急いで来たんだから、仕方ないでしょ…」
「ああ…」
 祐一はぼんやりとした声で答える。
「とりあえず…自分でも謝っておくわね」
「あ?」
「前の件」
「何の話だ?」
「…名雪から聞いていないの?」
「聞いていない。なんも聞いてないぞ」
「夜の校舎に呼び出した時の事…名雪からなんか聞いてない?」
「全く」
「ふぅん…」
 香里はいぶかしげな顔をする。
「あの子も、よくわからないとこあるわね」
「で、何を謝るんだ?」
「うん…フラストレーションをぶつけて、悪かったって」
「フラストレーション?」
「そうよ」
「あれが、むしゃくしゃの爆発だったって言いたいのか?」
「簡単に言えばそういう事ね」
「…なんなんだ、それは」
 栞が「何のために生まれてきたの」という、夜の校舎での香里の号泣…の、否定。
「そのままよ」
「栞の存在を、どうしても認めないという事か」
「その逆ね」
「??」
「それと」
「ちょっと待て…わからんぞ」
 別の話題に移ろうとしている香里に、祐一はストップを掛ける。
「私は、破綻しているから」
「…は?」
 ストップを無視して話題を変えられたのだが、その内容の不可解さに祐一は思わず間抜けな声を上げた。
「相沢君と栞がどうだったのかは全然わからないけど…少なくとも、私は破綻しているから」
「待て。一方的にしゃべるな。きちんと説明してくれ」
「自分をコントロールしきれなかったってことよ。あれがフラストレーションだったって聞けばわかるでしょ。栞や相沢君はどうかわからないけれど」
「わからない。全然説明になってない」
「ひょっとすると、自分だけじゃなくて他人のコントロールも入っているかもしれないわね」
 祐一の方すら見ないで言う。
「だから、最初から、誰にでもわかる形で説明してくれ」
「…別に、きちんと説明するような話じゃないわよ」
「じゃあなんで追いかけて来たんだよ」
 祐一が問うと、香里はガードレールに歩み寄って道路の脇に流れる川へと視線を落とした。
「…降ってきたわね」
「ん?」
「雪」
「…あ」
 祐一の視界を、白いものがよぎる。真夜中ではあるが、ちょうど街灯の近くだったからよくわかった。
 降り始めたと思うと、まるで夕立のように雪は勢いを増していく。東京ではまず見られないような雪の降り始めだ。
「うわ…」
「早く家に帰った方がいいわよ」
「違うだろ。説明はどうなったんだ」
「…相沢君」
「なんだよ」
「少し、注意を色々な方向に向ける訓練をしてみてもいいんじゃないかしら」
「…どういう意味だ」
「そのまんまよ」
 香里は祐一に背を向ける。ウェーブがかった髪に雪が積もり始めていた。
「栞のことか?」
「………」
「栞に対する俺の態度が、香里から見て駄目だったって言いたいのか!?」
 自然と語気が荒くなってしまう。
「そうは言ってないわ」
「じゃあどういう意味だ?」
「………」
 香里は、雪の降る道を祐一とは逆の方向に歩き始める。
「おい…香里、何のために追いかけてきたんだ」
「…フラストレーションの発散よっ!悪かったわね」
 だっ!
 突然香里が駆け出す。
「お、おい!?」
 祐一は1,2歩追おうとしたが、香里の勢いに面食らってしまって走り出す事ができなかった。すぐに香里の姿は降りしきる雪の中に消えていく。
「………」
 雪はますます勢いを増そうとしていた。
「なんなんだよ…」
 祐一はぼやいてから、水瀬家への道を再び歩き始める。
 雪は強かった。放っておいても祐一の髪の毛や肩に降り積もり、どんどん冷たさが伝わってくるようになる。それをひっきりなしに振って落としながら、ポケットに手を突っ込んで祐一は歩いた。
 うつむきながら歩いていると、どうしても思考が単純になってくる。
 2月1日午前0時11分。祐一の頭に浮かんでいたのは…
 他でもない、栞の最後の後ろ姿、ただそれだけだった…。

-END-



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