栞(長編) その4
たたたた…
夜道をスピーディな足音が駆けていく。
はっはっという呼吸は規則正しかったが、そのペースはかなり速かった。ひっきりなしに白い吐息が闇に生まれ、後方に流れていく。長い髪も風になびいている。
それは、名雪の姿だった。
いつもの通学路を、こんな時間にも拘わらず全力で走っている。その目ははるか前方をじっと見据えていた。
その先には、ひとつの人影がある。どちらを向いているのかすらよくわからなかったが、どうやら名雪と同じ方向に向かって歩いているようだった。名雪はそれを追いかけているらしい。
「……!」
その人影が突然消える。
しかし、名雪は同じペースで走り続けた。実際には消えたわけではなく、横の路地にそれただけなのだ。もちろん名雪もそこに路地があるという事を知っている。
だっ!
数十秒のあとに、名雪はその路地までたどりついていた。強くアスファルトを蹴って、方向転換する。外気の気温とは全く関係なく、名雪は汗だくになっていた。毎朝祐一と走っているときのような中途半端なダッシュとは違う、真剣な走り方だ。それを延々と続けているのである。
名雪は路地の向こうに、街灯にぼやっと照らされた後ろ姿があるのを確認してまた走り出す。向こうはゆっくりと歩いているだけだから、距離は相当縮まっていた。
だっだっだっ…
「かおりっ!」
その距離が10mの近くまで迫ったとき、名雪は声を涸らして叫んだ。
ただごとではない足音と声に、思わずその後ろ姿は振り返る。
確かに香里だった。
「かっ…かおりっ…」
名雪はそのまま香里の前まで走り、急ストップをかける。
「はっ…はぁっ…はぁっ…」
膝に手をついて息を整えつつも、名雪は下から見上げるようにして香里の事を見ていた。恐ろしく真面目な形相だ。
「………」
あまりに唐突に現れた名雪の姿に、香里は困惑してしまったようだった。学校で会ったときには幾度となく冷たい反応や無視を繰り返してきたわけだが、こんな所で疲れ果てた姿を見せつけられては、とっさには判断できない。
香里は名雪に声すらかけなかったが、少なくとも放置して歩いていこうとしたりはしなかった。
「かおりっ」
名雪は低い体勢のままふらりと一歩進み、香里の手を両手でぎゅっと握る。必死だ。ひどく冷たい香里の手を、何があっても離さないと言った様子でぎゅうっと握りしめる。
「ねぇ、かおり…」
名雪はただただ香里の名を呼ぶことしかできない。
「…痛いわ」
「あ…」
「逃げないから、離してくれる?名雪」
そう言って香里は少し手を持ち上げる。
「う…うん」
名雪は呆然としたまま片方ずつ手を離していった。そのまま、再び膝に手をついて息を整え直していく。
「…焦らなくていいわよ」
「ご、ごめん…香里」
多少心持ちついてきたのか、名雪が謝った。
ふぅ、と香里がため息をつく。名雪は恐る恐るといった面持ちでそれを見る。
「結局、あなたみたいのが一番扱いづらいのね」
「……?」
よくわからないが非難されているような気がして、名雪はしゅんとなる。
「いいのよ…悪いのは私なんだから」
「わからないよ…香里」
普通の体勢に立ち上がりながら、名雪は言う。
「それで、名雪…」
「ね、ねぇっ、香里、『百花屋』さん行こうよ」
香里が何事か言おうとするのを遮って、名雪は言う。
「…こんな時間に?」
「お腹すいちゃったし、香里もイチゴサンデー食べようよ」
「私は…」
香里は何か言おうとしたが、今度はその言葉を自分で止めた。
「…そうね」
「ほんとう?よかったっ…」
名雪は心底嬉しそうな顔をして、香里の横に並ぶ。
「うちに連絡入れなくていいの?」
「途中で電話するよ」
「そう」
二人のいる路地は、ちょうど商店街に向かう方向だった。香里が向かっていた方向に、ゆっくり歩き始める。
その間、名雪はいつもよりもハイテンションな様子で会話をしていたが、やはりどこか落ち着かなさそうにも見えた。香里の方は無愛想ながらも、名雪の会話にきちんと相槌は打った。
多少ぎごちないながらも、なんとか成立している会話が続いていく。
名雪は途中、公衆電話で家に連絡を入れた。
「あ、私だけど」
『ああ。なんだ?』
「今日、ちょっと遅くなるかも」
『部活か?』
「ううん…ちょっと。お母さんにも言っておいてね」
『間が悪いな…さっき、秋子さんから今日はだいぶ遅くなるから、名雪にご飯お願いするって電話が来たばっかなんだ』
「あ…そうなの?」
『いいよ。こっちでなんとかするから』
「ごめんね、祐一」
『いいって。じゃあな』
「うん」
がちゃ。
名雪は電話ボックスから出る。
「おまたせ〜」
「いいの?」
「うん、大丈夫だよ」
「電話の相手は相沢君?」
「う、うん…そうだけど、どうかしたの?」
「なんでもないわ。ただそう思っただけ」
「そ、そう」
名雪と香里は、公衆電話のちょうど向かいにあった『百花屋』に入っていく。
店内は空いていた。夕食には早いし、ティータイムには遅すぎると言う事なのだろう。おしゃべりの場さえ見つければ数百円で延々と居座り続ける高校生達も引き上げた後のようだ。
「イチゴサンデー食べるの久しぶりっ。一週間ぶりくらいだよ〜」
「…それで」
「え?」
名雪のイチゴサンデーと、香里のコーヒーとミックスサンドミックスサンドは名雪の懇願によって追加されたものだがを注文してから、香里が唐突に切り出した。
「何が聞きたいの?」
「………」
まさか香里の方から本題を振ってくるとは思っていなかったので、名雪は完全に詰まってしまう。むしろ、名雪の方からこの話題を振ってしまって、香里が態度を硬化させてしまう事だけは避けようと思っていたほどなのだ。
「………」
ほとんど真っ白になった名雪の頭には、店内に流れている有線の、数ヶ月前のポップソングしか入ってこない。
「決めてなかったの?」
「え…」
「…あなたらしいわ」
香里がまたため息をつく。
「別に、私は、ただ香里が最近暗くって、寂しかったから」
視線を香里の目とはわずかに外れたところに向けて、名雪は言った。どちらかと言えばだだをこねているような、子供っぽいしゃべり方を意識的にやってみる。
「そう」
「う、うん」
名雪は香里の振ってきた話題を継続すべきかしないべきかを考えて、結局保留した。
「…でも、ほんとに、最近ちゃんとご飯食べてる?」
本題とは言えないまでも、多少トーンの低い話題を慎重に維持していく。香里が不快感を示したらすぐに切り替えるつもりだった。
「これまで通りよ」
「だめだよ、ちゃんと食べないと…」
「…ダイエット中だから」
「香里、じゅうぶん痩せてるよ」
それは事実である。
「私は名雪みたいに運動しないから」
「でも、不健康なダイエットはよくないよ」
なんだか、ただのダイエットトークになってしまいそうだった。しかしそれでも構わないと名雪が思っていると、
「…これくらいの不健康で死にはしないわ」
また、微妙な言葉を香里がつぶやく。
「死んじゃったら困るよ」
「そうね」
「だから、きちんとご飯食べようよ」
「一度食べなくなると、そっちが普通みたいになっちゃうのよ」
香里がゆっくりと髪をかき上げる。
「治さなきゃ、ぜったいにダメだよ」
「精神科にはかかりたくないわね」
「まずは自分で治そうと思わなきゃダメだと思うよ…」
冗談と真剣のぎりぎりの狭間で会話が進んでいく。
「お待たせしました」
「あ、はい」
名雪は胃に痛みを感じそうになり始めていたが、ちょうどその時ウェイトレスが注文を運んできた。名雪はほっとして目の前に置かれたイチゴサンデーを見つめる。
手際よく置かれた細長い先割れスプーンが、妙に嬉しかった。
「いただきます〜」
名雪は香里にも目で促す。
「…いただきます」
「うんっ」
意外にあっさりと香里が答えてくれたので、名雪は安心する。
つんつんしていた胃がクリームとイチゴで癒されていくような感覚を感じながら、名雪はイチゴサンデーを堪能していた。ひとまずは香里も栞も関係なくなってしまう。
「おいしい〜」
「いつもと同じでしょ?」
「いつもと同じくらいおいしいんだよ」
「幸せね」
「うん。私、とっても幸せだよ」
「いいわね…」
クリームの甘みに覆われていた名雪に、またちくんと言葉が突き刺さる。
「香里も、おいしい?」
「普通ね」
レタスとハムのサンドを長々と時間をかけてかじりながら、香里は言った。ぽそぽそとしたパンの感触を際だたせているような食べ方だ。
「香里もイチゴサンデーにすれば良かったのに…」
「重すぎるわ」
「次に来た時は、イチゴサンデー食べられるようにしといてね」
「…そうなれば、いいわね」
ふわふわと湯気を立てるコーヒーを一口。
やはり、どうしても会話が境界線上で揺らめかずにはいられない。名雪は一瞬、返答に詰まってしまう。
「………」
「………」
それをきっかけに会話が止まった。そして一度止まってしまうと、会話の流れを取り戻す事は極めて難しかった。
名雪はイチゴサンデーのアイスクリームをちょこちょことかき回しながら、一体どうすればいいのか途方に暮れる。香里はコーヒーばかりを少しずつ飲んでいた。
有線が流す曲は、いつの間にか三年も前のものになっている。その曲の2番が最初から最後まで流れていったのを、名雪は覚えず認識していた。
かちん。
サビが終わった瞬間、香里がやや強めにコーヒーカップをソーサーに置く。無論、それは偶然だったのだろうが。
「やっぱり、聞きたいことがあるんでしょう?」
テーブル上の一点を見つめながら香里が言った。
「香里…」
「だったら、誤魔化さずに聞いて」
そこには非難の色も憂鬱の色もなかった。非常にさばさばとしている。ならばこれまで香里が名雪に対して取ってきた態度は何だったのかと思いつつも、
「うん…」
名雪はうなずいていた。
「えっとね…」
かと言って、すぐに質問の内容が浮かんでくるわけもない。名雪は焦りながら考えたが、糸口はなかなか見つからなかった。
「…相沢君から、どこまで聞いてるの?」
「祐一?」
そんな名雪に、香里の方から話を振ってくる。
「聞いてるんじゃないの?何か」
「うん、すこし…」
「すこし、ね…」
香里は何かを測っているかのように名雪の目を見る。
「あの…香里、なんでわかったの?」
名雪がまず聞いたのはそれだった。
「なんとなくよ」
「ほんとう…?」
「こんな事で嘘ついても仕方ないでしょ」
「そうだけど…香里、頭いいから」
「関係ないわ」
「そうなの」
「そうよ」
名雪は少々納得していない顔だった。どうしても自分が何かボロを出したのではないかという気になってしまう。
「で、なんて聞いたの」
香里が静かな声で訊く。
「栞ちゃんの事…」
「どういう風に?」
「香里の妹だっていうことと…それから…」
「それから?」
間髪入れず問うた。いつの間にか、香里の方が質問する側になっている。
「病気だ、って」
名雪は下を向いて、ぽつんと言った。
「どういう?」
が、さらに香里は質問を続ける。
「病気の名前は聞いてないよ…」
「そんなの、私も知らないわ」
「そうなの?」
「そうじゃなくて、どういう病気だって聞いたの?」
「………」
祐一とのやり取りが名雪の頭をよぎる。
まだ、昨日のショックが完全になくなったわけではなかった。とにかく寝てしまおうと思ってベッドに入ってもなかなか眠れなかったし、夢は悪夢だったような気がする。朝御飯を食べている間に、綺麗に忘れてしまったが。
「…普通の、病気じゃないって…」
「…そう」
香里はやっと追及をやめる気になったようだった。
名雪はイチゴサンデーを大きくすくって、自分を落ち着かせるように口に運ぶ。食べ慣れた甘みとすっぱさが喉を通り抜けていくと、やっと少し余裕を取り戻す事が出来た。
「香里は、なんで栞ちゃんのこと、妹じゃないって言うの?」
名雪の方からも問いを始める。ここまで来たら、香里に不快感を与える与えないの問題ではないような気がした。自分が思っている質問をぶつける。香里の相談相手になる。可能であろうと不可能であろうと、そうしようと名雪は決意した。
「傷つかないためよ。私も、栞も」
栞なんて知らない、という答えはさすがに返ってこなかった。
「栞ちゃん、傷ついているよ。絶対に」
名雪は訴えかけるように言う。
「それは大丈夫よ、相沢君がいるから」
「祐一?」
「栞にとって大切な人が、ひとりいてくれればそれでいいの」
香里は喫茶店の大きな窓から、外の闇を見つめて言う。
「祐一だけじゃダメなんだよ、香里も栞ちゃんにとって大切な人にならなくちゃダメだよ」
「違うわ」
「なんでっ?」
香里が、名雪の方に視線を戻した。
「私は、栞が死ぬまでを見ていかなくちゃいけないから」
「……え……」
死という明確なフレーズに、名雪は言葉を失う。
「栞、もうすぐ外に出られなくなるはずよ」
「………」
「だから、相沢君との付き合いももうすぐ終わるはずなの」
「……けど」
「栞は、相沢君の想い出だけを大切にして、死に向かっていくのよ」
「なんで?なんで、祐一の楽しい想い出と香里の楽しい想い出、両方じゃだめなのっ?」
名雪は身を乗り出すようにして言う。
「栞は、一番栞らしくいられたときを覚えていてもらうべきよ」
「違うよ!」
「栞が栞らしさを失っていく時にも、私は栞を見届けなくちゃいけないの。どれだけ私が栞の存在を否定していても、あの子は私の妹なんだから…!」
「そんな…」
栞の存在を認めているのか、認めていないのか。矛盾している表現。しかし逆説的な誠実にも見える表現。名雪は思いの赴くままに否定することはできなかった。
「栞がそれを私に見られて傷つくよりも、最初から私に期待なんかしない方がいいの。相沢君が、想い出を作り上げてくれるのなら」
「でも、やっぱり、今の香里の態度、栞ちゃんは傷ついてるよ…」
「今から修正する方が、あの子は傷つくわ」
「そんなことないよっ」
「もう、決めたの…」
「考え直そうよ!みんな、絶対に栞ちゃんに優しくしてあげた方がいいって言うよ!」
「声が大きいわ…」
「あっ…」
名雪はきょろきょろと辺りを見回す。幸い、客は名雪達の他に誰もいなくなっていた。店員の姿も見えない。聞こえていないという保証はないが。
「それよりも、私が心配なのは、相沢君…」
「…なんで?」
会話をそらされた事よりも、祐一の事の方が気になったようだった。
「栞との関係に彼が疑問を持ったら、危なすぎるわ」
「祐一はそんなことしないよ」
一言の下に否定する。
「そうね。相沢君は、自分の責任だと思った事に関しては純粋でしょうね」
「だから、香里も栞ちゃんに優しくしてあげて…」
「………」
それについて、香里は返事をしなかった。
名雪は悲しく思いつつも、これについて何度でも香里を説得しようとすることが自分の役目だと固く決心する。
その時、名雪に別の疑問が浮かんできた。
「ねぇ香里」
「…なに?」
「この間の晩、祐一を呼びだしてた時、何を話してたの?」
「…そうね」
目をしばたたかせながら、香里はほとんど残りが無くなっているコーヒーを飲んだ。サンドイッチはまだひとつしか手がつけられていない。パンがますます乾燥して、ぱさぱさになってしまっている。
「フラストレーションを相沢君にぶつけただけだと思うわ…謝ってたって、伝えてくれる?」
「…そうなの?」
名雪は半信半疑だった。
「そうよ」
「…うん…」
しかし、うなずく。
「それじゃ、私はそろそろ行くわね」
香里は横の席に置いてあった鞄に手を伸ばす。
「だめだよっ。サンドイッチ食べてないよっ」
「もうまずくなっちゃったわよ」
「きちんとこのサンドイッチ食べなくちゃ、祐一に伝言しないもん」
「わけわからないわね…」
香里は苦笑しながら伸ばした手を止める。名雪はにっこり微笑んだ。
「すいませーん」
名雪がウェイトレスを呼ぶ。
「はい?」
厨房の方から、さっきのウェイトレスが顔をのぞかせた。
「お冷やふたつお願いします」
「はい」
一度顔を引っ込めてから、すぐに氷水の入ったタンブラーをふたつ運んでくる。
「どうも」
「ごゆっくりどうぞ」
そう言って、ウェイトレスはまた厨房の方に引っ込んでいった。
「…もう十分ごゆっくりしてる気がするわね」
「そうでもないよ」
名雪はお冷やを一口飲んでから、アイスの部分が溶けてしまったイチゴサンデーをぱくつき始める。
「ところで名雪」
チーズとレタスのサンドイッチを手につまんだまま、香里が言った。
「なに?」
「名雪は、相沢君をどう思ってるの?」
「………!」
「ただのイトコ?」
「か、香里…」
「そうじゃない、みたいな気もするんだけど」
最近滅多に見せなかった、やや悪戯っぽい笑みを浮かべて香里が言う。
「な…なんで?」
「なんとなくよ」
「香里、ずるいよ…」
「そうかしら?」
「うん」
「で、どうなの?」
「………」
名雪は顔を真っ赤にしてうつむいてしまったが、
「今の祐一に、そんな事言えるわけないよ」
と、多少悲しい色も交えて言った。
「…そう」
香里は笑みを崩していない。ただし、悪戯っぽさに加えて、自嘲めいた笑いが加わった感もある。
「フクザツね…」
そして、味気のないサンドイッチをかじった。
「…栞」
「いきなり名前を呼ばないでくださいっ」
「いや、いきなり感想を述べるというのも…」
「もういいですっ」
ぱっ。
「…気が早いな」
「祐一さんの反応が露骨過ぎるんですっ」
ぱたんと閉じたスケッチブックを抱えて、栞はむくれていた。
「…それだけ自信がないというのもある意味才能かもな」
「変な褒め方しないでください」
「どうやって褒めようか、一生懸命考えたんだが…」
「せっかく嬉しいプレゼントだったのに、これじゃ嬉しさ100分の1です」
「それじゃビー玉並みだぞ」
「値段の問題じゃないです」
「でも、栞の絵はこの世にひとつしかないんだから、どんなものでも大切にしないとな」
「最初に言わなくちゃ意味ないですっ!」
本格的に機嫌を損ねたようだった。
「もう描きません」
「まあそう言うな、栞」
「そんな事言う人、嫌いです」
「…どうやってフォローをしろと言うんだ、栞」
「だったら最初から嫌な事言わないでください」
「とりあえず、またどっかで描いてみような。俺も少し教えてやるから」
「祐一さんも絵を描くんですか?」
「ま、まぁ…」
栞の絵に比べれば。
「…わかりました」
「今度はどっか別のとこで描くか」
「そうですね」
「ああ」
ある程度機嫌は直ったらしい。さすが栞だ。
「…祐一さん、誤魔化せたと思ってませんか?」
「人聞きが悪いな」
実に鋭い。
「信用がありませんから」
「しかし、外も暗くなっちゃったな」
「…ええ」
時計は6時半を指していた。名雪から連絡があってから、もうだいぶ経っている。
「夕飯、食べにいくか?」
「いいんですか?」
「あんまり大したものじゃないけどな」
「嬉しいです」
恐らく、軍資金は後で秋子から調達されることだろう。多少後ろめたいものを感じつつも、祐一は秋子の底知れない好意を期待することにした。
「お電話、貸してもらえますか?」
「ああ」
祐一は外に出る準備を始める。栞は画具を片づけ始めた。
10分の後、二人は水瀬家から外に出る。
「寒いな」
「手をつないでもいいですか?」
「…この辺りだけな。明るいとこに出たら嫌だぞ」
「はい」
嬉しそうに言って、祐一に栞が近寄っていく。
「あれ?」
その時、祐一が声を上げた。
「…どうかしたんですか?」
「名雪」
「…祐一」
「?」
夜道の向こうにいたのは、確かに名雪だ。
祐一の姿を見て、とと…と小走りに駆けてくる。
「なんだ…結構早かったんだな」
「うん、ちょっと、電話したときはどれくらいかかるかわからなかったから」
「ああ。俺達は夕飯外で食べてくるんだけど」
その複数形を聞いて、やっと名雪は祐一の隣に…正確には、やや祐一の影に隠れるような位置だったが…栞がいるという事に気づいたようだった。
「あ…こんばんわ」
「こんばんわ」
栞と名雪はお辞儀しあう。
「えっと…従姉妹の、名雪。で、栞」
まるで栞も従姉妹のような紹介の仕方だが、肩書きのつけようがない。
「初めまして」
「こちらこそ、初めまして」
初対面のような、そうでないような。少々ぎごちないあいさつだった。
「えーと、じゃ、俺達、行ってくるから」
「うん。遅くなる?」
「いや、そんなには」
「いってらっしゃい」
「ああ。秋子さん帰ってきたら、伝えといてな」
「失礼します」
もう一度お辞儀をしてから、栞は祐一の横に並んで歩き始めた。
「………」
名雪はすぐに家の中に入っていったようだったが、なんとなく栞は手をつなぎそびれている。祐一も、特にその事については言及しなかった。
しばらくすると二人はいつものように話し出したが、結局手をつなぐ事はせずに賑やかな通りまで来てしまう。
その日の夕食は、結局ファミリーレストランだった。カルボナーラスパゲッティーとアイス。オムライスとアイス。
別れ際に、栞は、
「プレゼント、ありがとうございました…」
と多少恥ずかしそうに言った。
「ああ。明日はどっかに出かけて描こうな」
「ええ」
そして、この日も栞はひとりで家まで帰っていった。
祐一は家路を歩く間になんとなくあゆの事を思い出していた。今日の昼間会ったとき、栞に画材をプレゼントするといいということをほのめかしていた。それから、しばらくこの辺りに来れなくなりそうだという事を言っていた。
「また会いましょうね」という栞に、あゆは難しい笑みを浮かべて答えていた。まさか、栞の病気に気づいたという事はないだろうが。
思えば、あゆも謎な奴だったな…
そう言えば、今日会ったときは登場の時に飛びついてきたり激突してきたりという事はなかった。あゆにしては珍しく、元気がなかったような気もする。
そんな感想を抱きつつ、祐一は水瀬家に戻った。
『朝〜朝だ…』
カチッ。
「………」
目覚まし時計から流れてくる名雪の声を、祐一はコンマ数秒で止めていた。目覚めはいい。
1月30日、土曜日。1月というのは比較的30日しかないと思われがちな月であろうが、さすがに今はそんな間違いをしない。1月は今日を入れてまだ2日間あるのだ。
祐一は掛け布団を跳ね上げ、床に下りてから窓に近寄った。そしてシャーッ…とカーテンを開けると、
「…ぐぁ」
…外は見事なまでの曇天、重苦しく雪が降っている。舞い落ちるような生やさしい雪ではない、雨のようにはっきりと存在感のある雪だ。見事なまでのボタン雪なのが重い雰囲気に拍車を掛けている。
せっかくの良い目覚めをくじかれたように思いつつも、祐一は学校に行く準備を始める。
ていうか、天気予報くらいチェックしておくんだったな…
今日は土曜日だから、半日授業だ。学校が終わったら、一度家に帰って私服に着替えてから駅前で栞と待ち合わせ、という予定だった。
祐一はYシャツを着ながらもう一度外を眺める。
この土地の天候を良く知らない祐一でも、外でデートなどという行動を許してくれそうにない天気である事はわかった。東京なら、どう考えても交通機関は完全にマヒ、商店街は休業、学校はもちろん休校と言ったところだろうが…。
とりあえず、土地の事は土地の人間に聞くに限る。
一通り身支度を済ませてから、祐一は部屋を出て名雪の部屋のドアを叩く。
その瞬間、ちょうど名雪の部屋の中の目覚ましが勢い良く鳴り出した。
「おーい名雪ー!起きろーっ!」
どんどんどんどん!
中にある無数の目覚まし時計のベルの方がよほどうるさいのだが、それに加えて名雪の声を呼びながらドアを思い切り叩く。
しかし、反応は無かった。これで起きる確率は半々だと、祐一は経験上理解している。祐一は鞄を床に放った。
がちゃ。
ギャリリリリリ…!
昔ながらの金属を叩く式の音と、デジタル音の音が混ざり混ざってすさまじい音がこだましている。集合住宅なら間違いなく怒鳴り込まれそうな音だ。祐一は耳を押さえながら名雪のベッドに近づいていく。
「おい名雪っ!起きろっ!」
耳を押さえながら言うので、自分の声が変にくぐもって聞こえた。
名雪は祐一とはちょうど反対方向を向いて、横になって寝ている。一向に起きる素振りがない。
「いい加減に…」
右の耳を抑えるのを手の平から肩口に素早く切り替えて、名雪の身体をつつこうとした瞬間、
がばっ!
「うおっ!?」
名雪が突然激しい寝返りを打った。
「…祐一…」
「な、なんなんだ…」
祐一は尻もちをついたまま、耳を押さえるのも忘れて名雪のことを見ていた。
「…祐一?」
「と、とりあえず目覚まし止めろ」
「あ…うん」
名雪はベッドから起き上がって、ひとつずつ目覚ましを止めていく。
「ごめん…私、寝ぼけてた?」
「あぁ…めちゃくちゃ驚いたぞ」
「ごめんね」
なぜか、一度起きてしまうと名雪は普段よりもしっかり動いているように見えた。言葉も妙にはきはきしている。
一通り目覚まし時計を止め終えると、名雪は目じりの涙をぬぐってから小さくあくびする。そして、あくびで出てきた涙をぬぐった。
「じゃあ、下行ってるぞ」
なんとなく名雪が目覚ましを止め終えるまで待っていた祐一が言う。
「うん」
「ていうか、もう少し平和に起きてくれ」
「わかったよ…」
そして祐一は名雪の部屋を出て、廊下に転がった鞄をつかむと階下に下りていった。
「おはようございます、祐一さん」
いつものように秋子が朝食の準備を整えているところだ。
「おはようございます…しかし、すごい雪ですね」
「そうですね、最近はいい天気が続いていたんですけど」
「これで学校とか普通にやってるんですか?」
「やっていると思いますよ。もっとひどくなると、電車やバスで通ってくる子達は可哀想ですけどね」
「…なるほど」
確かに、祐一の通っている高校は歩きで来ている人間がほとんどのようだった。
「商店街とかは?」
「やっています」
「そうですか…」
「すごいときは、もっと雪が降ってきますから」
「…想像したくないですけど」
「祐一さんも、ここにずっといればいつかは見るはずですよ」
ずっと…
少なくとも、祐一の両親が海外にいる間は、この水瀬家で名雪と秋子との生活をしていく事になるのだろうが…
「大学をどこにするか、真剣に考えておくことにします」
「私は、ここから祐一さんが通うのも大歓迎ですけど」
「気持ちだけ、頂いておきます…」
「そうですか」
そして、秋子はキッチンの方に行った。パンを焼きにいったのだろう。
ほどなく、コーヒーの入ったポットを持って秋子が戻ってくる。
「栞ちゃん、どうですか?」
コーヒーを注ぎながら、開口一番秋子が言ったのはそれだった。
「…どうって言われても…難しいですけど」
「楽しいですか?」
「それは、間違いないです」
「仲が良さそうですものね」
「そうですね…」
「栞ちゃん、礼儀正しいのに元気そうないい子でしたし、祐一さんとお似合いですよ」
元気そう…
秋子の洞察力を以てしても、栞の病気は見抜けないと言うわけか…。
「そうですね。栞は…」
栞は…
その後の句は継げなかった。
「おはよう…」
「あら」
その時、名雪がリビングにやってくる。
「雪降ってるね」
「そうだな」
「名雪、今日はきちんと起きてるのね」
「うん…」
平和な水瀬家の朝食の風景に、祐一はわずかに違和感を抱いてしまいそうになり、それがひどく情けなかった。
「しかし、シャレになんない雪だな、ほんとに」
「商店街の方を回っていけば、もう少し歩きやすいから、そうしようね」
いつもの通学ルックに加えて、大きな傘etcの完全武装でふたりは歩く。公的なものか住民によるものか、多少の除雪は為されているようだったが、雪の勢いは収まっていないから次第にまた雪が積もってきてしまうのだ。
「これで学校やってるっていうんだから」
「このくらいだったらお休みにはならないけど、もっとすごくなったらさすがにお休みになると思うよ」
「どうやったらこれ以上の勢いで雪が降るっていうんだ…」
「そのうち見られるよ」
「遠慮する。絶対に」
「祐一が遠慮しても、天気は変わらないよ…」
「家にこもっていれば大丈夫だ」
「そういう時に外に出るのが楽しいんだよ」
「…子供か」
「玄関を開けると、背の高さくらいある雪が目の前にあるんだよ」
「閉じこめられたような気分になるだけだろ…そんなの、しょっちゅう見るんじゃないのか?」
「ううん。この辺ではそうでもないんだよ」
「そうなのか」
「もう少し雪が多い方に行けば、いつでもそれくらい積もっているんじゃないかな」
「それは、人間の活動する場所じゃないぞ」
「そんなことないよ…でも、祐一、昔来ていた時もこれくらいの雪は見ていたんじゃないの?」
「うーん…なんか、あんま覚えていないな」
7年前までは祐一もこの辺りによく来ていたわけだが、ここまで激しい雪は記憶にない気がする。子供の時なのだから、今以上に雪が激しく降り、高く積もっているように見えていたはずだと思うが…。
「なんか、こっちに来たときはいつも晴れてたような気もする」
「そんなはずないよ」
「そうなんだが…地面に雪が積もっていたのは覚えてるもんな」
「じゃあその分、これから降ってくる雪もたっぷり見るといいよ」
「だからいいって言ってるだろ…」
「雪、嫌い?」
「寒くなければ」
「それじゃ雪じゃないよ」
「人工雪があるだろ」
「人工雪も冷たいよ…」
「なんで雪国の人間が人工雪について詳しく知っているんだっ」
「誰でも知ってるよ」
「とにかく、俺は寒いのが嫌いだ。以上」
「……そう」
名雪は短く答えて、
「ここで曲がる?」
横に入る道を指さした。商店街の方向だ。横に曲がる細い路地なら他にも何本かあるのだが、今日のような天気では通り抜けにくいという事なのだろう。
「…そうだなぁ」
「ここが一番通りやすいよ」
「なぁ名雪、別にいつもの道でも行けない事はないよな?」
「え?うん、行けるけど。少しは時間がかかっちゃうけど、今日は時間に余裕があるし商店街を通っていった方が歩きやすいと思うよ」
「そっか。じゃあさ、悪いけど俺は普通の道で行くわ。名雪は商店街周りで行きたいならそれでもいいぞ」
唐突に祐一がそんな事を言い出す。
「なんで?祐一、寒いの嫌いって行ってたのに…」
名雪が不思議そうな顔をした。
「急に気が変わったんだ」
「祐一、何か急ぐ用事あるの?」
誤魔化そうとする祐一につき合わず、名雪は質問する。
「…ま、そんなとこだ」
祐一も無理に誤魔化す事はしなかった。
「じゃあ、私も一緒に行くよ」
「いいのか?」
「私、雪好きだもん」
「…そっか」
そして、祐一と名雪はそのままいつもの道を歩いていった。
祐一は段々と足元の雪が増えていくのではないかと危惧していたのだが、別にそういう事はなかった。
「別に、普通に歩けるな」
「だから、歩けるんだけど、商店街の方が雪が溶けてて歩きやすいんだよ」
「比較的そっちの方がマシってことか」
「そうだよ」
学校に近づいてくると他の生徒の踏み固めた部分なども出てきて、むしろ歩きやすくなっていった。雪の勢いも心なしか弱まってきたように思える。
「この分なら、無事に学校までたどりつけそうだな」
「たどりつけるから学校がやってるんだよ」
「それもそうだが」
栞はどうだろう?
祐一はやらなければならない二つの事があった。栞が学校に来ているか確認すること、それから駅前で待ち合わせるという約束をキャンセルすること。これだけ雪が降れば栞が大事を取って学校を休んでも全く不思議ではないし、仮に来ていたとしても駅前で待ち合わせるというのは無謀すぎる。
一番怖いのが、学校を休まれて駅前に直接来られるというパターンだった。栞ならやりかねない。
仮に来ていたとしても、探し出すにはそれなりの苦労がありそうだったが…。そもそもどこのクラスなのかすらわからない。となれば、昇降口で待ち伏せるしかないだろう。
いずれにしろ、この雪の中で来るかどうかもわからない人間をひたすら待ち続けるというのは御免だ。それは名雪の時で懲りているし、あの時よりも雪は相当強く降っている。
「祐一、祐一っ」
「あ?」
「どこまで行くの」
「…おう」
いつの間にか祐一は校門の前を通り過ぎかかっていた。向こうから来た人間の傘にぶつかりそうになる。
祐一は少々気恥ずかしくなりながらも名雪のところに戻っていった。
「いや、考え事してたもんでな」
「じゃあ、私が話していた事なんにも聞いてなかったの?」
「聞いてはいたが、理解していない」
「おんなじだよ」
「…ということで、もっかい説明してくれ」
「二度も言う事じゃないもん」
「変に重要な事を変なタイミングで言わないでくれ」
「聞いていない方が悪いんだよっ」
「だから、聞いてはいたんだが…」
「もういいよ」
名雪は膨れてしまう。その仕草はどこか栞に似ていない事もなかった。
「…なぁ、名雪」
「祐一、嫌い」
とりつくしまもない。
祐一は心の中でため息をつきつつも、名雪の方はイチゴサンデーで何とかする事にした。とりあえず、今緊急に必要なのは栞を探す事だ。
教室に着くと、机に荷物を置いてから祐一は駆け出す。
「どうしたの?」
「ちょい急用だ」
「そういえば、そう言ってたね」
名雪の声を背に、祐一は教室を飛び出した。
廊下も階段も生徒の荷物や服からこぼれた雪のせいか、かなり濡れてしまっている。危なっかしい事この上ない。それでも、祐一は段々と増え始めた生徒の間を縫って昇降口に急いだ。
そして昇降口にたどりつくと、適当な場所に陣取って一年生の下駄箱の方から出てくる生徒を注意深く見つめる。
知っている人間には非常に見られたくない状態だったが、祐一は仕方ないと腹をくくる事にした。
真剣な目で見る。生徒の数は時間を追うほどに増えていき、ちょっと気を抜くと見過ごしてしまいそうになるのだ。特に、今日は栞がいつもと同じような格好をしているかわからない。コートくらいは着込んでくるはずだし、うっかりすると気づかないなどという事もある。
生徒の数がピークに達しそうになった時、
「あ」
祐一は小さく声を漏らした。
栞ではない。ただ、前に一度見た顔。始業式の時に栞が話しかけたという、栞と同じクラスの子だ。
祐一は一年生の教室の方に歩いていくその姿を追った。
「あの、ちょっといいか?」
「…はい?」
目の前に回り込んで声をかける。
「確か、栞の美坂栞の友達だったよな?」
「え…あ、あっ。あの時の」
突然話しかけてきた上級生の姿に彼女は面食らっていたようだったが、祐一の事はすぐに思い出したようだった。
「ちょっと栞に伝言頼みたいんだけどいいか?」
「あ、はい、いいですけど」
「今日は雪だから、駅前じゃなくて昇降口にするって。それだけでわかると思うから」
「えーと、駅前じゃなくて昇降口…わかりました」
「頼むわ。突然お願いして悪いけど」
祐一は極力ぼかして言ってみたが、常識的に考えればこれが何の伝言なのかはすぐにわかるだろう。祐一は照れくさいものを感じながら、
「んで、栞がもし休んでたら…」
「はい」
「休んでたら…どうするか」
冷静に考えると、この子と祐一の連絡手段がない。かと言って放課後にまたこの子と待ち合わせるというのもムシが良すぎる。
「あの、私教室一度見てきましょうか?」
「え?なんでだ?」
「美坂さん、朝早くから教室に来ている事が多いですから」
「あ…そうだな」
祐一は栞が先に来ていたという可能性をすっかり失念していた。
「悪いけど頼む。俺はここで待ってるから、栞がいたらここまで来るように言ってくれるか?」
「わかりました」
少女はとと…と教室の方に駆けていく。そして一年生の教室のうち、一番手前の教室に入っていった。恐らく二年生と並びは同じだろうから、1−Aという事になる。
そして、ほどなく1−Aからひとりの少女が姿を現した。さっきの子ではない、栞だ。祐一は栞の方に近づいていく。
「祐一さんっ」
「う…」
教室に向かおうとしている一年生の生徒達が何人か栞の方を向く。別の何人かが、祐一の方を向く。背筋がむずがゆくなりそうなのを必死に抑えて、祐一は栞が走ってくるのを待っていた。
「なんですか?」
「あ、栞、もう少しあっち行こう」
「え?昇降口の方が人多くて話しにくいと思いますよ」
「いいから」
祐一は、周囲の視線というものを栞に感じて欲しいと心から切望した。
「…はい」
釈然としない顔をしながら、栞はうなずく。
「しかし、栞、こんな日に外に出て大丈夫だったのか?」
「ええ、完全武装で来ましたから」
「大げさだな…」
「雪国で暮らすための生活の知恵です」
「完全武装と生活の知恵って、すごい語感が離れていると思うんだが」
「偶然です」
しれっとした口調で言う。
「…はぁ。まあいいや、それで、今日は駅前ってのは無謀すぎだから、とりあえず昇降口で待ち合わせて考えような」
「そうですか…残念です」
「栞、この天気の中で待ち合わせする気だったのか?」
「そのための完全武装なんですよ」
「人間、無茶しない事も大切だぞ」
「為せばなるとも言いますよ」
「とにかく、俺は今日みたいな天気に無理をして外に出ようという気にはなれない」
「じゃあ、どこにするんですか?」
「それは会ってからで考えればいいだろ。とりあえず、そろそろチャイム鳴りそうだし、また後でな」
「わかりました…どこがいいか、考えておきます」
「俺も考えとく。じゃあな」
「はい、祐一さん」
キーンコーン…
「おっと…じゃ」
「はい」
祐一は栞と別れ、いつもよりも多い気がするHR前の生徒達の群れと一緒に教室まで戻った。
教室の中には普段より人間が少ないように思える。普段遅刻寸前で駆け込んでくる人間は、雪のせいでアウトになるという事なのだろう。祐一と名雪も、いつも通りのペースで来ればまだ通学途中だった可能性が高い。
しかし、教室にいない人間の中には香里もいた。
「香里、来てないな…」
祐一は席につきながら名雪に話しかける。
「うん…そうだね」
「雪で、遅刻しただけだったらいいんだけどな」
「そうだね…」
名雪は昨日香里と別れた時の事を思い起こす。
あの、深刻だったり冷やかしだったりする会話の後は、非常に穏やかな、静かなやり取りが続いた。そして夕食時で人が増え始めたのを見計らって二人は店を出た。
最近ずっと見る事のできなかった小さな微笑を湛えた香里を、名雪は安心して見送ったのだが…。
「たぶん、大丈夫だよ」
「…そうだな。ここで心配していてもわかるわけじゃないしな」
「香里を信じようよ」
「わかった」
がらっ。
その時石橋がドアを開けて入ってくる。
「ん〜久々によく降ったな。出席取るぞ、席につけ」
結局、その日香里が学校に姿を見せる事はなかった。
「栞」
「祐一さん」
半日の授業を終え、昇降口に赴いた祐一の目に栞の姿が映る。
「雪、まだ降ってるな」
「今日は夜まで降っているみたいですよ」
「らしいな…ところで、栞」
「なんですか?」
「香里、今日家を出ていたか?」
知っているとすれば栞しかいない。
「お姉ちゃんですか…」
「ああ。今日休んでるんだけど」
「ちょっとわかりません…私が早く出ちゃいましたし」
「普段は同じような時間に出たりするのか?」
「いえ、お姉ちゃんは私よりいつも遅く出るんです…」
「そっか…」
朝食も食べていないのだから、香里は栞と顔すら合わさずに家を出ているのだろう。ひょっとすると、栞が早く学校に来ているというのも、学校に来るのが楽しみであるという事と同時に香里に気を使っている事もあるのかもしれない。
「わかった。それで、どこに行く?」
話題を強引に変えるのは心苦しかった。だが、栞との時間は後一日半…一日半しかないのだ。
一日半!そう、一日半だ。
「普通の女の子として接しなくてはならない」という前提も、その残酷な数字を前にすれば弱々しいモノになってしまう。
「考えたんですけど、学校の中を回るのはどうですか?」
そんな祐一の思考とは無関係に、栞は屈託無く言った。
「学校?そんなの回って楽しいか?」
「まだ私、この学校の中を全部回ったことないんです」
「そういや、俺もそうだな」
転校して以来特に必要がなかったから、職員室と学食くらいしかわからない。体育館すら入った事はなかった。
「ですよね?だから、学校の中探検してみませんか?」
「探検、か…」
苦笑しつつも、それは割とよい提案であるように見えた。
「わかった。この雪で外出るのも大変だしな」
「はい、そうしましょう」
「じゃあ…学校を回るなら、昼は学食か?」
「行きましょうっ」
栞はとても楽しそうだった。
土曜日に学食を訪れるのは、祐一も初めてだった。雪のせいなのか、思ったよりも生徒の数が多かった。
AランチとBランチという、とても平凡な名の食事をして、100円のカップアイスをひとつずつ食べる。祐一が汲んできたお茶はちょっと苦すぎると栞が眉をしかめた。学食の責任だと言った祐一に、お湯で薄めてくればよかったんですと栞が言った。でも、栞はそれを全部飲んだ。
図書室では、意味もなく色々な本を手にとって中を眺めていた。始業式の日に配られたというまっさらな借り出しカードを、栞は大切そうに祐一に見せた。転校生は自分で言ってカードを作ってもらうという事に祐一は初めて気づき、なんとなくカウンターでカードを作ってもらった。しかし、二人とも本は借りなかった。
体育館は部活で使われているところだったので、校舎からつながっている屋根のついた渡り廊下だけ見た。その向こうには鉄の大きな扉が閉められており、中から運動部の練習する喧噪が聞こえてきていた。
進路指導室、印刷室、校長室など、普通の1,2年生であればそれほど縁がないであろう所も、部屋の前だけ通り過ぎる。視聴覚室や化学教室は授業によっては使うようだが、祐一もまだ来た事がなかった。そこにも行ってみる。
そんな校内の中で、保健室だけは栞も来たことがあるらしかった。
「始業式が終わって帰ろうとしたとき、調子が悪くなっちゃったんです」
「そっか…」
この保健室に来て以来、何ヶ月も栞はこの学校の生徒として教室に足を踏み入れてなかったわけだ。
ピアスの金属アレルギーや覚醒剤のポスターが張ってある保健室の掲示板を、何となく二人で見つめていた。
そうこうするうちに、時計は三時を過ぎた事を示している。
「思ったより、長かったな」
「少し疲れちゃいましたね」
「俺達、なんでわざわざ学校の中歩き回って疲れてるんだろうな…」
「楽しいからですよ」
そして、二人は休めるところを色々と探した結果、三年生の教室にたどりついた。
「そっか、今受験シーズンだからいないんだな」
「そうでしたね…忘れてました」
「俺も。三年生に知り合いなんていないし」
祐一は蛍光灯のスイッチを入れた。分厚いカーテンがしっかりと閉められており、部屋は夜のように暗かったのだ。
栞は適当な席を見つけ、そこに座る。
「…ふぅ」
「だいぶ疲れたみたいだな」
そう言って、祐一もひとつ前の席に座った。
「でも、学校ほとんど全部回っちゃいましたね」
「ああ。後回っていないところ、あるかな」
「屋上には行っていませんよ」
「そりゃそうか…でも、今の季節は閉まってるだろうし、雪が積もりまくってとんでもない事になってるんじゃないのか」
「残念ですね」
「でも、この学校の9割は制覇しただろうな」
「実際に、いろんな部屋の中にも入ってみたかったですけど」
「ま、カギ掛かってたからしょうがないだろ」
そう言ってから、祐一はふと考える。
「あれ?でも、なんでこの教室、今は使ってないのにカギ開いてたんだ」
「普通の教室は開けておくんじゃないですか?」
「それも変な話だけどな」
祐一はぐるっと教室を見回す。そして一点に目を止めた。
「…あそこから、誰か入ったんじゃないか」
「え?」
「あそこ。ほらあの扉、隙間空いてる」
「あ、ほんとですね」
床の近くに並んでいる換気用の小さな引き戸のうち、ひとつが小さく開いていた。
「あそこの戸締まり、わざと忘れる奴がいるからな」
「その方が便利なんですね」
「ま、こっそり侵入できるしな」
「祐一さん、なんか変な事をした経験あるんですか?」
「…どういう意味だ」
「夜中にこっそり忍び込んで、女の子の机を漁ったとか…」
「やるかっ!」
「でも、普通侵入するって言わないと思いますよ」
「言葉のアヤだろ」
「そういう言葉がつい出ちゃうのは、潜在意識でそういう事したいと思っているからだと思いますよ」
「またいい加減なことを…」
「じゃあ、忍び込んでどういう事するんですか?」
「そりゃ、忘れ物を取りに来るとかだな」
至極当然の返答を返す。
「あやしいです」
「なんでだよ…」
「あれだけえっちな祐一さんが、何もしないで帰ったとは思えません」
「だーっ、仮の話だろ。別に教室に忍び込んだ事があるわけじゃないって」
「そうなんですか?」
「そうだよ」
「残念です…」
「…あほか」
祐一ははぁ、と息をついてもう一度教室を眺めた。並んでいる机はみな空っぽのものばかりで、栞の言うようなフェティッシュな魅力などまるで見えない。
それはそうだ。誰も来ない教室なのだから。
誰も来ない…
誰も来ない。その枠組みに、栞との日々があと1日半ないという事実が、かちっ…とはまってしまう。
…コホン。
祐一は軽く咳払いした。
栞が、何も言わずに祐一の事を見つめる。自然と生まれる沈黙。気まずいような、二人の意思が通い合っているような。そのどちらなのか、祐一は判断できなかった。だから、生まれてしまった沈黙をどう破ればいいのかわからない。
焦った。
しかし何に急(せ)かされているのかと言えば、栞との日々がもう残りわずかという事実に他ならない。それを考えないというのは、栞と交わした大切な約束だ。
非常に苦しい二重拘束に、祐一はどうしようもなくなってしまう。
「…祐一さん」
その沈黙を破ったのは、栞の方からだった。
「辛そうな顔、してますよ…」
「…そうか」
「ええ」
「ちょっと…雪で、体調崩したかな…」
「さっきまではいつも通りの顔でしたよ」
そう言うと、栞は机の下から手を出した。そしてその手を伸ばすと、そっと祐一の額に触れる。
「栞…」
髪の毛を持ち上げられる感触のあと、ひんやりとした温度が伝わってきた。
「熱なんてありません」
「…そうか」
手を額に当てられたまま、祐一は言う。
栞も、なかなかその手を離そうとしなかった。
「祐一さん」
「なんだ…?」
「祐一さん…今、悩んで、いましたか?」
「………」
何を、とは聞き返せなかった。
「…ここなら、栞を抱いても大丈夫かなって思っただけだ」
だが、出てきたのはそんな台詞だった。
ぴしっ。
栞は額に当てた手をわずかに離すと、祐一にデコピンを食らわす。
「いて…」
「当たり前です」
「そうだな」
「もう一回です」
ぴしっ。
「いて」
「えっち」
「そうだな…」
「嘘つき」
「………」
祐一は何も答えず、目の前に迫っている栞の指先をぼうっとした目で見ていた。
「…だけど」
ゆっくりと指を離しながら、栞が言葉を続ける。
「仕方ないです」
小さく笑みを浮かべながら言った。
「祐一さんがえっちなのは、生まれた時からなんでしょうし」
「…あのな」
「私の事を考えてくれて、悩んでいてくれた事もわかります」
「………」
「何もかも、『普通の女の子』みたいに接する事なんて出来るはずないですから」
さらりと、そんな事を言う。
「だって、そうしたらその子はまるで何の特徴もない、のっぺらぼうで性格も趣味も好物もない女の子になっちゃいますもんね」
栞はかたりと音を立てて椅子から立ち上がった。
「だから、そんなに悩まないでください」
「…でもな」
「祐一さんは優しいですから、無理なお願いも真剣に考えてしまうんです」
「そんな事はない。俺は、俺がしたいようにしているだけだ」
「確かに私は『普通の女の子』というドラマが見たかったですけど、それが最初から最後まで続くはずはないんです。だけど祐一さんは、このドラマを真剣に見ていてくれました…」
「栞は…全部嘘だと思って、演じていたってことか…?」
ゆっくりとした動作で、栞は首を振った。
「本当だと思って、演じていたんです」
「矛盾…していると思う」
「それでも構いません」
一歩、二歩と栞が祐一に近づく。
「全部まるかばつで決めることなんて、できませんし、したくありません」
「そんな曖昧なので、満足なのか?」
「祐一さん、私を愛してますか?」
「…ああ。愛している」
「はっきりしてるじゃないですか」
微笑み。
「…俺は…よく、わからない」
「でも愛しているんですよね?」
「愛している…」
「それでいいんです」
栞はくるりと後ろを向いた。
「栞?」
祐一は声を掛ける。しかし栞はそれに答えず、自分の手をスカートの中に入れていく…
「栞?」
少しずつ栞が屈んでいくと、白いショーツが膝の所まで下ろされていった。祐一は絶句する。
「そして…」
栞が祐一に背を向けたままつぶやく。
「そして、美坂栞は、不安になった相沢祐一に、誰もいない教室で乱暴されちゃうんです」
「………」
「でも、相沢祐一は、美坂栞の方が誘ったんだって言い張るんです…」
とん。
栞の両手が、机の上に突かれる。
その後ろに立った祐一は、栞に覆いかぶさるような姿勢で栞のスカートの中に指を這い込ませていった。
指を伸ばしていくうちに太股に触れる。そのすべすべした肌の上を、祐一は慎重に這い上がっていく。
やがて、指の先から太股よりも弾力ある感触が返ってくるようになった。ヒップの方にまで来てしまったと判断して、祐一は少し指を戻しながら、横の方にスライドさせていく。
丸みを帯びた肌の上を滑っていく感触の後、ついに祐一の指が別の膨らみの感触を探り当てる。
たぶん、今触れているのはヴァギナの辺り…
何もかも推測で進めるしか無かったが、祐一はゆるゆるとしたタッチでその周辺を刺激していく。昨日はいきなり秘部の辺りに触れても栞は大丈夫だったという記憶はあるが、それにしても足の付け根の辺りを濃厚に愛撫した結果という事がある。大胆に動く事はできない。
ぷちゅ。
あっ…
祐一は心の中で声を上げた。
指の先に、突然ねっとりとした粘りが感じられる。やはり祐一の指はヴァギナの辺りを愛撫していたようだ。思いのほか栞が早い反応を示した事に、祐一は栞の愛液を初めて目にした時のような感激を覚えてしまう。
生まれてきた愛液を段々と栞の前の方に伸ばしていくようにして、祐一は秘部を愛撫し続ける。少しずつ動きを大胆に出来るようになると、栞の割れ目がどこからどこまでなのかという事も指の感触だけでわかるようになった。
それはすなわちクリトリスへの愛撫にもつながる。
見えにくい分繊細な愛撫は出来なかったが、イレギュラーな動きが多くなる分、不意の快感が生まれやすくなっているようだった。ついついぐりっ、と強い動きを突起に走らせてしまう事もあったが、栞はぎゅぎゅ…と机に触れた指を動かす事で耐えているようだ。
それも、これまでの栞の反応から考えれば痛みによるものではないだろう。
祐一は最後に栞のヴァギナの位置を探り、軽く指先を挿入することで確認した。ぬぷ、と飲み込まれたかと思うと、きゅっと締め付けてくる。その反応が面白かった祐一は、もっと深く指を挿入してみた。やはり抵抗は全くない上に、より強い締め付けが感じられる。
試しに、もう一本指を増やしてみた。多少入れにくくはなったが、それでもスムーズに入っていく。太くなった分、感じられる締め付けも強い。なら、三本では?
これはかなり入れにくい。ペニスとほとんど同じ太さだが、体重をかけられるわけではないので押し出されそうになってしまうのだ。
それでも、強く力を入れてみるとずぶりと挿入できた。
「く…ふ」
栞が軽く声を漏らす。祐一の指はきつい締め付けを感じる。熱くぬめった感触も、愛撫しているときとは比べものにならないほど近く感じられる。それはペニスの挿入とも全く違う感触だった。
じゅぷっ、と音を立てて祐一は指を抜く。
「栞…いくぞ」
「はい…」
はぁはぁと息を荒げながら栞は答えた。
祐一はズボンのチャックを下ろし、トランクスも下げる。あまり見た目にかっこいい仕草ではなかったが、見られていないという事もあって普通に済ませてしまう。そして栞のスカートを少したくし上げると、露出させたペニスを栞の脚の間から上げていった。
やがて、ペニスの先端にぬぷりという感触が感じられる。祐一は指を添えてヴァギナの位置を確認しようとしたが、偶然にもペニスの当たっている場所はヴァギナの入り口と言って差し支えない位置だった。
祐一がぐっと力を入れて腰を押し出すと、いつものように滑らかな感触で栞の身体が祐一を飲み込んでいく。さっきは指に感じていた熱いぬめりが、ペニスを包み込む。
ただ、体勢がいつもと違うため、どこか不思議な感じもした。より「性行為的」なのだ。端的に言えばいやらしい。
ず…ずっ
祐一は栞の腰をつかむと、抽送を始める。栞は机の表面をつかむようにして、身体が動かないように支えた。
もちろんお互いの表情は見えない。二人をつないでいるのは、明確にペニスとヴァギナだという事がまざまざと感じられる。お互いを感じるなら、性器の熱と快感しかないのだ。
じゅぷ、じゅぷ、じゅぷと粘っこい水音だけが規則正しく響いていった。栞の身体が示したあふれ返る反応。祐一はそれをより感じるといわんばかりに、激しく腰を突き動かした。
時折、ぎっ、ぎ…と机が動いてしまう。祐一が強く突きすぎて、栞が支えきれなかった時だ。バランスを崩しそうになり、慌てて机をつかみ直す栞の仕草が、妙にエロティックだった。だって、下半身と下半身はつながっていたのだから。
少しずつ、身体の奥底から熱いものがこみ上げてくる。
その原始的な欲望に衝かれながら、祐一は思い切り腰を打ち付ける。栞のヴァギナの最も深くを激しく叩きながら、痺れるようなペニスの感覚は全く制御しなかった。
ずぶっ…!
最後に深く深く突き刺して、そこで動きを止める。
びゅ…びゅく、びゅびゅっ…
栞の奥に、白濁の液が吐き出された。最高の快楽を感じながら祐一は栞の背中に倒れ込む。
びく…びく…
その瞬間、栞の身体は痙攣を始めた。ヴァギナもひゅくひゅくとした収縮をしている。あたかも祐一の精液を搾り取ろうとしているかのように…。
知らずの間に、二人の絶頂は合一していたのだ。
つながった、そのままの体勢で、祐一と栞は性交の後の感覚に酔いしれていた。普段よりも、ずっと長く。
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