理奈[訪れ]


 旋律が流れていく。
 多少、重苦しいと言えるかもしれない。弦楽器の響きの重なり合いは見事だったが、そういう完璧性は日常の中でかえって雑音化する事もままあるのだ。現代日本においてバッググラウンド・ミュージックである事を求めるなら、もっと透明な旋律が求められているのだ。
 カチン…!
 理奈は、トマト・ジュースの入ったグラスを長い爪ではじいた。既にマニキュアは落としてしまっている。
 その鋭い音は部屋の空気を一気に沈静化させたようだった。
 さらに、テーブルの上から拾い上げた黒いリモコンの操作によってさざ波が引くようにクラッシック・ミュージックの存在感が薄くなっていく。それによって、ようやくこの部屋の空気とオーディオ機器は共存してある事を許されたようだった。
 …チン
 理奈が、もう一度軽くグラスをはじく。その自然音は、CDの奏する音楽などよりずっと理奈の心にマッチした。それは明らかに沈黙の音なのだ。
 ところがクラッシックは、その文法を学んだ人間である理奈に雄弁に語りかけてくる。歌詞もない、テクノのような露骨なリズム感の押しつけもない。そういう、無知な人間には空気のように響く音楽。しかし理奈はクラッシックの文法を知っているから、それを空気のように感じる事はできない。むしろありふれたアップテンポのポップソングが流れていた方が、まだ何も考えずに聞き流してしまえるかもしれない。
 カチ…カチっ
 そのあとも何回か、理奈は硬質な音を確かめるかのようにグラスをはじいていた。白いクロスの上に映えた真っ赤なジュースがかすかに揺れている。理奈はそこに自分のメタファーを見出す事が不可能ではないような気がしたが、疲れていたので深くは突っ込まなかった。
 …そう、理奈は疲れている。
 疲れるとは感情のセクションが不明瞭になる事だと春樹の小説の中の人物が言っていた。同一視するには多少物足りない気もする対象だったが、理奈の年頃の人間が春樹を読んだからと言って誰が誹(そし)るだろう?それに、理奈は春樹に傾倒しているわけでもない。ただ読書好きの人間として、何回かかじった事があるだけなのだ。
 ひょっとすると、英二は春樹を全て読んでいるかもしれない。そういえば二人とも同じ大学を出ているのだと気づいた時点で、ようやく理奈は思考の馬鹿らしさに気が付くことができた。
 もっとも、それは理奈のささやかな学歴コンプレックスに起因しているものだろうから、気が付いたからと言って素直に喜べるようなものではない。いつも感じている「兄さんはずるい」という感情が思考回路を乱しただけの話だ。
 カチ…!
 振り切るようにグラスに決定的な一打を加え、理奈はソファにもたれかかった。自然とため息が出てくる。そして「やれやれ、」と言ってしまいそうになってから慌ててその言葉を飲み込んだ。
 じっとトマト・ジュースを見つめ、表面の揺らぎが収まっているのを確認してからグラスを手に取る。その真っ赤な液体を、理奈は少しだけ口の中に注ぎ入れた。
「ふぅ」
 グラスを手に口元を拭う仕草は、画になる。ドラマ出演の依頼が来る所以である。しかし、それは英二によってしっかりと遮断されていた。
 だがいくら画になる場景であったとしても、トマト・ジュースをごくわずかだけ口に含むと青臭さが強調されるという事実は変わらない。理奈は面白くなさそうにグラスをテーブルの上に戻した。もちろんその不満感は現実のリアルさに向けられていたわけではなくて、むしろアンリアルさに向けられていたと考えるべきだろう。
 都内某所、緒方理奈在住のマンション、リビングの中央である。
 ここはマスコミにも全く出ることのない場所だった。それも英二の遮断による。と言っても、それくらいの事はかなりの芸能人がしているのだから英二が特別に偏屈というわけではない。生活臭と結びつけられる事を嫌うケースは少なくないのだ。
 ということは中をどのようにしようと理奈の自由という事になるわけだ。が、この家の中は、仮にこの瞬間テレビ局の突撃取材に遭ったとしてもそのまま通るくらいに、つまり理奈のイメージと確実にフィットする戦略的媒体として通用するくらいのものだった。
 乳白色を基調とした、柔らかめのトーンで統一された内装。そこにどっしりと存在感を持って現れてくる、ブラック・カラーのAV機器。素人はそのサイズで、玄人はその型番で圧倒される事間違いなしである。掃除も行き届き、清潔感が強く打ち出されていた。
 個室の方はパステルカラーも交えた、もう少し女の子趣味の色濃く出た部屋である。ただ、軽くパンチの利いた原色も要所要所に配置されているのが理奈のイメージをさらにくっきりと描出するかもしれない。そして壁の一番目立つところには、A1サイズの理奈のポスターがあった。
 別に、英二が選んだわけではない。理奈が選んだ。
 そうする以外、どうすればいいのか分からなかっただけの話である。パーツが数個しかないプラモデルを組み立てるようなものだ。接着剤があれば誰にでも作れる。注意するのは接着剤を多くつけすぎたり少なくつけすぎたりしないことだけだ。
 そんな…
 そんなことなんて、もううんざりするくらい考えたって言うのに…
 理奈は、座ったソファーにこてんと倒れ込んでいった。髪の毛が乱れた様子などは、ちょっとこれまでと違う。何かが壊れているのだ。
 この部屋に引っ越してきた当初、理奈を感傷的にさせたのは部屋に来る人間など永遠に現れるはずがないという寂寥感。もう2年も前の話だ。2年間もそれを引きずるほどに理奈は非理性的ではない。
 だが、その寂寥感をかき回されれば、沈静化して底に溜まっていたはずのものが上に沸き上がってくる…
 理奈は何かを噛みしめるかのように目を閉じた。
 冬弥の部屋に理奈は行ったのだ。


「冬弥君っ…」
「理奈…ちゃん」
 「やっぱり」、と「信じられない」、が混じり混じった顔で冬弥は出迎えた。あのスモーキーグリーンのドアを未だに理奈は鮮明に覚えている。
「は、はやく入った方がいいんじゃないの…?」
「うん…」
 理奈は素早くドアの間に身を滑り込ませた。
 …バタ。
 さっと勢いよく閉めようとしても、ドアの重さによってやや「もったり」した閉め肩になってしまう。そんな感覚が、指先を伝わって敏感に理奈の身体に響いた。
「とりあえず上がって…何もない部屋だけど」
「うん…お邪魔、します」
 手に持ったオレンジ色のサングラスを握りしめてから、理奈はパステルカラーのミュールをゆっくりと脱いでいった。ちょっと見た目には、渋谷辺りを歩いている女子高生に見えないこともない。少し行きすぎたおしゃれが似合う年頃だ。
「でも、それくらいでバレないの?」
 冬弥は不思議そうに問うた。ずっと前に理奈に連れられてレストランに行った時の変装と比べれば、簡単すぎるように見える。髪型も大していじっていない。リボンを解いて、そのまま下ろした感じだ。しかしその格好は普段のアイドル然とした理奈のファッションからも離れていたし、二十歳を過ぎた理奈の年齢からもやや離れていた。
「結構バレないものよ?これで」
「ふーん…近くで理奈ちゃんを見たことある人間なら、すぐ気づきそうだけどなぁ」
「テレビに出てる時とか取材の時とかに会っている人って、普段着の時に私と会ってもほとんど気づかないんじゃないかしら?」
「俺は理奈ちゃんがテレビに出てようと、コンビニでばったり会おうとすぐわかると思うけど…」
「ふふ…それは、冬弥君だからでしょうね」
 ミュールを脱ぎ終わった理奈は、とん、と純白の靴下で廊下の床を叩く。
「もっとも、やたら手の込んだやり方でここに来たから、途中でほとんどの人間は巻いちゃったと思うけれど」
「でもマスコミの人間のやり方ってすごいでしょ?注意してないと、どこにカメラや盗聴器があるかわからないって」
「さすがに冬弥君の部屋に盗聴器を仕掛けようって人間はいないわよ」
 廊下を歩きながら、二人は話す。
「今のところは、ね…」
「理奈ちゃん…?」
「う、ううん…とにかく、マスコミ連中は全部途中で私を見失ってるはずだから、大丈夫よ。保証するわ」
「そうだね、理奈ちゃんが言うんだったら大丈夫か」
「ふふ…」
 実際の所、ここに来るまではスパイごっこのような追い掛け合いがあったのだ。超多忙アイドルに完全なオフの日があるとなれば、その行動を記者達が追わないわけがない。それを100%の自信で完璧にやりすごすまでの自信は、理奈にもなかった。
 そして、プランを立てたのは弥生である。
 恐らく断らないだろうと踏んで相談に行ったら、案の定二つ返事で引き受けてくれた。そして15分後には理奈のマンションから冬弥の家まで、行き帰りを完璧に行うプランが出来上がっていたのである。弥生の能力は認識していたとはいえ、理奈も舌を巻くほどの仕事ぶりだった。
 もちろん弥生はそのプランを書いた紙を渡すときも無表情だったし、冬弥の家を理奈が訪ねる事に何一つとして言うことはなかった。が、内心ではほくそ笑んでいたに違いない。由綺のライバルが、由綺の精神的不安材料を勝手に奪っていくと言うのだから。
「理奈ちゃん相手じゃ下手な飲み物出せないな…普通のほうじ茶あるけど、それが一番無難かな?それでいい?」
「うん、もちろんよ」
 多少の悔しさを感じずにはいられなかったが、理奈はプライドにまかせて不利な選択肢を選ぶことはしなかった。ある意味では、冬弥の家に赴くという事自体がプライドを捨てる宣言に等しいのだから。誰に対する宣言でもない、自分に対する宣言である。
「でも、一日中家にいてくれってメールが飛んできた時は何事かと思ったよ」
「一日中いてほしいって言ったら、私が来るって思わない?」
「いや、そうなんだけど。電話番号教えた時の事もあったし。でも、やっぱり…理奈ちゃんがこの部屋にいるのが、なんか信じられないな」
「そう…でしょうね」
 理奈が冬弥のベッドの上に腰掛けて、少し声のトーンを暗くする。
「あ、別にそういう意味で言ったんじゃなくて。あの…なんて言うかな」
「いいのよ。冬弥君の言いたいことはわかるから」
「う、うん。そうだと助かるな」
 冬弥はキッチンでほうじ茶の準備を済ませると、部屋に戻ってきた。
「それで、特別に何か用とかあって…?」
「そうじゃないわ…ただ、冬弥君の家に今日は夕方までいさせてくれる?」
「そりゃあダメって言うわけないけどさ。なんか、特別に俺に話があるのかって思ってたから」
「ううん…」
 理奈は小さく微笑みながら首を横に振った。
「そういうつもりじゃ…ないつもり」
「…そう」
 歯切れの悪すぎる理奈の言葉は、冬弥にそれなりの心配を与えた。もちろん気の強いアイドルとしての姿を理奈に当てはめるのが、つまらない単純化に過ぎなかったことは冬弥も十分わかっている。理奈と知り合ってからの期間は、無視できるほど小さなものではなくなってきているのだ。
 と言っても会えるのはテレビ局やエコーズくらいだったし、会ったとしてもちょっと話をするくらいの関係。
 いや、それだけの関係と言うには少々無理が出てきているのかもしれない。
「とりあえず俺は今日一日ヒマしてるから、理奈ちゃんの好きにしてもらえばいいよ」
「ありがとう」
 冬弥は動揺や不安を顔に出さないように努めながらそう言った。
「暖房…入れる?」
「いいわ。今日、暖かいでしょ?」
「そうだね」
「冬弥君、寒いの?」
「いや。そんなことないよ。ただ、今の季節だったらあったかいお茶でも結構おいしく飲めるんじゃないかな」
「そうね」
「うん」
 理奈は積極的にしゃべろうとしなかったが、冬弥は出来るだけ柔らかく会話を進めようと試みる。別に理奈がとげとげしく振る舞っているわけではないのだから、そうする内に理奈も普段のペースを取り戻してくるだろうと思ったのだ。
「春休みって結構長い割に何か特別にしようって気も起きなくて。バイトがない日はヒマになるんだよね」
「そう?」
「うん。だから理奈ちゃんが来てくれて良かったよ。別にヒマつぶしってわけじゃないけどさ、嬉しい感じ」
「とうやく…」
 ピィ…
「あ、ちょっと待ってて」
 理奈がふっと口を開こうとした瞬間、キッチンから立った薬缶(やかん)の音で遮られた。
 足早にキッチンに向かう冬弥の後ろ姿を見ながら、理奈は胸が締め付けられるような感情を覚える。吐露しようとした事が身体の中にとどまって、理奈の心を圧迫しているのだ。
 理奈のいる場所からは、キッチンで茶を入れようとしている冬弥の姿が見え隠れする。その微妙な距離感が理奈の想いを刺激してやまなかった。手が届きそうな、届かなそうな、消えてしまいそうな、そんな事はけしてないような位置。
「お待たせ」
 しかし冬弥が二つの湯飲みを持って、くるりとこちらを向いた瞬間にそういう不安定さは霧散した。
「熱く…ないか、そんなに。大丈夫かな」
 歩いてくる冬弥の姿は、くっきりとして理奈の視界の中を占めていた。
「多分、そのまま持ってもそんな熱くないと思うから…渡すよ?」
「う、うん」
 もっとも、冬弥の姿が安定していようと不安定だろうと理奈の心は頼りなく揺れていた。さっき寸前まで出かかった言葉が、即効性の毒のように理奈を冒しているのだ。
 ぎゅ。
 下手をすると手を滑らせるかもしれないという危機感が生まれ、理奈は必要以上に強く湯飲みを握りしめていた。
「ど、どうかしたの?」
「えっ…な、なんでもないわよ」
 理奈は湯飲みのふちに口をつける。
「あつっ…」
 勢い余ってほうじ茶を流し込んでしまい、理奈は顔をしかめた。
「理奈ちゃん…落ち着こうよ?」
「そ…そうね…」
 涙目で口元をぬぐいながら答える。色々な感情が交錯してきて、理奈の顔は真っ赤になっていた。
「別に深い意味はないけど、言いたいことがあれば言っちゃった方がいいと思うよ?もちろん無いんだったら問題ないし、言いたくないんだったら全然言う必要はないけどさ。俺に関係あることかもしれないし、そうじゃなくても俺が手助けできることがあるかもしれないし。どう?」
 冬弥は苦笑しながら言う。あるいは自嘲気味だったと言ってもいいかもしれない。
「そうね…」
 理奈は湯飲みを置く場所を探したが、手頃な場所は見つからなかった。両手で湯飲みを持ったまま、床の上の一点を見つめて息を少しずつ整えていく。それは自分の中に渦巻いているものが整理されていくような、混沌に落とし込まれていくような、不思議な感覚だった。
「焦らなくてもいいよ?それこそ時間はたっぷりあるんだから。なんか音楽でも掛けようか?って、理奈ちゃんに聞かせるような音楽なんてあったかな…」
 冬弥は湯飲みを持ったまま、コンポの方に歩いていく。
「理奈ちゃんのCDとか少しはあるけど。掛けてみる?」
「いいわ…このままで」
「そう。このままの方が落ち着くかな?」
「そうね」
 今の理奈は、比喩的にも実際的にも音楽から遠ざかるべきなのだ。理奈はそう確信していたし、客観的に見ても恐らく正しい判断と言えるだろう。
 むしろ、理奈の家では滅多に聞こえてこないゆるやかな車の音のようなものがこの上なく心地よかった。冬弥の家は、理奈が普段と違うくつろぎを見出すのにちょうどバランスの取れていると言えるかもしれない。これ以上都会的だったり冬弥のセンスが良かったりすれば理奈の部屋との違いを見いだせないし、これ以上田舎にあったり冬弥のセンスが悪かったりすれば理奈にとって快い場所とは言えなくなる。
 理奈のわがままとは、テレビ番組に出ている時の気の強そうな受け答えなどよりも、そういう部分に強く出ているのかもしれない。
「ふぅ」
 ず…
 冬弥は机の椅子に座りながら、小さな音を立ててほうじ茶をすすった。
 理奈もほうじ茶を飲んでみる。取り立てて美味しいというわけではなかったし、もっと美味しく煎れるための作法というものがあるのかもしれない。少なくとも、紅茶やコーヒーの極めて質の高いものと比べた場合に見劣りするのは間違いないだろう。それでも、理奈はほうじ茶のおいしさが身体の中に染み通ってくるような気がしていた。
 冬弥が煎れてくれたというだけでフェティッシュな魅力を感じているわけではない。この部屋の雰囲気、来るまでのマスコミとの追いかけっこ、理奈と冬弥の抱えている様々な問題。そういうものが絡み合っている中に冬弥の煎れてくれたほうじ茶という要素が飛び込んでくると、不思議なほど光輝いて見えるのだ。
 かなり長い時間をかけてそれを飲み終わると、理奈は深くため息をついた。
 そしてそれが終わると、理奈はある程度の余裕を取り戻す事に成功していた。
 とん。
「冬弥君」
 机の上に冬弥が湯飲みを置いたのを機に、話し始める。
「なに?」
「話があるんだけれど、いいかしら?」
「いいよ」
 用はないという最初の言葉に真っ向から反する発言だったが、冬弥は何も指摘せずに首を縦に振った。
「何を言おうとしているのか、わかる?」
「予想は出来るけれど…予想だけ」
「そう…きっとその予想、当たっているんじゃないかしら」
「………」
 湯飲みに手を置いて、微笑を浮かべながら理奈を見る。冬弥はその笑みに他意があるように見せない事へ全ての神経を注ぎ込んでいた。
「あの日のこと」
 理奈はぽつんと言う。
「きちんと、冬弥君と話したいなって思って…」
「うん…」
「冬弥君は、嫌じゃない?」
「いや。俺と理奈ちゃんの間の話なんだし、俺が嫌って言うわけにはいかないよ」
 少し声のスピードを落として、確認をするように冬弥は言った。
「そう…じゃあ、何から話せばいいのかな…」
 理奈はその日の事を思い返しながら、冬弥からわずかに視線をずらした。
「そうだね…」
 冬弥も、壁の方に視線を移しながら答える。
「冬弥君、後悔はしてないの?」
「してないよ」
「本当に?」
「していない。嘘は言っていない」
「由綺の事を考えても、そういう風に言えるの?」
「…言える…考えなきゃいけないこともたくさんあるけれど、理奈ちゃんの事に関して後悔しているとは絶対に思ってない」
「由綺と別れても良いの?」
「………」
 冬弥は口を開きかけたが、つぐんでしまう。
「…ごめんなさい、少し急ぎすぎたみたい」
「いや。理奈ちゃんのこと後悔していないとか言って、それで由綺とまだ付き合い続けたいとか矛盾したこと言うわけにいかないし」
 やや苦しさをにじませた表情と声だったが、
「由綺と別れるよ。俺。すぐにってわけにはいかないかもしれないけど」
「冬弥君…」
「本当なら今すぐにでも言わなきゃいけないことなのかもしれないけれど、何も考えずに由綺にその話をぶつけたらかえって傷つける事になるかもしれないと思うんだ。だから…」
「そうね…今彼女、流れに乗り始めたところよね」
 由綺は音楽祭でほぼ最優秀賞に近いところまで迫った。結果的には理奈が受賞していたが、一時は二人受賞という話が出るほどに僅差、あるいは差なしの状態だったらしい。
 まがりなりにも実力差があった由綺と理奈の差が短い期間の間に縮まった事について、冬弥が影響の一翼を担っている可能性は否定できない。
 現段階では冬弥が理奈に影響を与え、相対的に由綺が向上しつつあるとしても、状況が表面化すれば由綺に加わるダメージは今理奈が伸び悩んでいるのとは比べ物にならないほど大きいはずだ。
「今なら、戻れるかもしれないのよ?」
「え?」
「私のことなんかなかったことにして、由綺にも内緒にして。私も冬弥君も、互いに付き合うとか愛してるとかは一言も言っていないし、それに…」
 身体の関係も存在しない。
 誰もいないスタジオで理奈が冬弥に別れを告げた時、冬弥はそれを追って後ろから抱きしめた。それだけだ。あとは何もなかったかのように無言でスタジオを去ったのだ。
 「…でなかったら…恋人にしちゃうから!」という理奈の叫び。そして去ろうとした理奈を抱き留めた冬弥。そこには何の言葉も介在していなかったが、そこで冬弥が抱きしめたという事実はあまりに雄弁だった。
「確かに、そうかもしれないよ。でも」
 冬弥はそこで言葉を切った。
 どんなに雄弁な事実でも、見ている人間が少なければ黙らせることは出来る。目を閉じて、首を絞めればいい。簡単なことだ。
「やっぱり、それは卑怯だと思うんだ。当たり前のことだけど」
「ストレートね」
「まぁね…」
「ストレートな言い方ってサマになるかもしれないけれど、それだけ負担も大きいのよ?ものすごく…ものすごくよ?」
「そうだろうね…」
 冬弥は限りなく曖昧な微笑を浮かべた。
「私は、冬弥君がどれくらい強いのかわからないわ」
「弱い、かもしれない」
「だけど、やらなきゃいけないからやる?」
 理奈はぴっ、と言い切る。
「そういうことになるのかな」
「そう…」
「うん」
 冬弥はさっきよりも随分冷めたように思えるほうじ茶を口にした。
「いつもの私だったら、怒っているかもしれないわ」
「怒るの?」
「そうよ。もっとはっきりしなさいよっ、てね」
「はは…」
 笑い声。しかし理奈の声が寂しさを帯びたものだったため、冬弥の笑い声もどこか寂しさを帯びて仕方がなかった。
「でも、私もわからないわ…どこをどうやっていけばいいのか」
「そんなもんじゃないかな?なんでも」
「私、兄さんに道を全部決められていたなんて言ったら責任の押しつけになっちゃうかもしれないけれど…たぶん、不安になるような道を進んできたって経験はないと思うの」
「うん…」
 冬弥は小さくうなずく。
「だけど、きっと私の方が異常なのよね。不安も感じずにずっと人生進んできて、20過ぎてから突然進む道がわからなくなるなんて」
「俺だっていつも悩みながら進んできたなんて言えないし、この先どうしていくのかも分からないし。理奈ちゃんと同じだよ。たぶん、不安がないんだって自分に言い聞かせながら進まなきゃいけなかったぶん、理奈ちゃんの方がかわいそうなんだと思う」
「ううん…」
 理奈はゆっくりと首を振った。下ろしている髪がさらっと揺れる。
「そういう風に自分をかわいそうだって言ったら、私は『緒方理奈』じゃなくなっちゃうから」
「英二さんの作った理奈ちゃんのイメージでしょ?それって。そんなもの、理奈ちゃんが気にする必要はない」
「捨てたい殻もあるわよ、確かにね…でも、捨てたくない、捨てない方がいいと思う殻だってあるのよ」
「捨てたくない殻…?」
「そう…」
 ざっ、と理奈が髪をかき上げた。
「全部抜け出して、ふにゃふにゃの部分が残ったって醜いだけよ」
「俺は…理奈ちゃんがどうあっても愛していくつもりだよ」
「これは冬弥君の問題じゃないわ。私の問題。これはどう干渉されても、誰にも変えることが出来ないことよ」
 強い意志で宙の一点を見つめる理奈の横顔は、なぜかいつもの迫力に近づいているように見えた。
 だが、やがてその表情がふっとゆるむ。
「言いたいこと…ほとんど言っちゃったわね」
「そう?」
「もっと遠回りすると思っていたのにね。冬弥君の前だから話せちゃったのかな」
「じゃあ」
 冬弥が椅子を立つ。
「いつもみたいに話しようよ。テレビ局とか『エコーズ』で会ったときみたいにさ。それでいい?」
「いいわね」
 話を真剣に聞いていないと思われるのではないかという危惧も冬弥にはあったが、理奈は嬉しそうに微笑んでくれた。
「…あ、でもその前にひとつだけ俺からも聞いていい?」
「もちろん」
「理奈ちゃん、今の仕事はずっと続けて行くんでしょ?それとも、それも抜けだしたい殻になっちゃうの?」
 わずかに不安もにじませた声だった。
「そうね」
 理奈はぱちっと目をしばたたかせて、冬弥の顔を見つめる。
「嫌いじゃないわよ、この世界。でも、抜け出すことにそこまで躊躇したりしないわ。抜けだしたいと思ったら抜け出すだけ。殻って言うほどのものじゃないわ。私が殻って言うのは…もっとメンタルな部分での話よ」
「ふぅん…」
 言いながら、冬弥はベッドまで歩いて理奈の横に座った。二人の体重でへこんだスプリングが重そうだ。
「…ごめんね、なんかまた話をややこしい方向に戻しちゃって」
「いや。俺が聞いたんだし。謝られたら困るよ」
 冬弥はぱたぱたと手を振る。
「ところで最初から気になってたんだけどさ、理奈ちゃんって髪をこういう風にしたのってかなり久しぶりなんじゃないの?デビューしたての頃からそうだった気もするけど、いつもまとめてばっかりだったよね」
「そうね。こうするとなんか雰囲気変わって見えるみたいだから。デビューの時に兄さんが決めてから、プライベート以外ではこうした事はないわ」
 ベッドに隣り合って腰掛けた二人の会話が、ゆるりと滑り出していった。


「あ…もう昼だね。ご飯って言っても外に出れないから取るしかないか…」
「もうそんな時間?」
「うん。理奈ちゃん、時間はまだ大丈夫なの?」
「ええ、まだまだ平気よ」
「そっか。じゃ、理奈ちゃんの口に合うかどうかわからないけど、ピザでも取る?出前してもらえるので一番マシなのって、それくらいしかないよなぁ…」
 冬弥は立ち上がり、電話の置かれている低い棚の方に向かう。その横には、ラックの中に大きめのファイルがいくつか並べられていた。
「ねぇ、冬弥君」
「なに?」
 そのうちの一つを持ち上げながら冬弥は返事する。
「ご飯はまだいいわ。だけど、ちょっと…」
「まだ、いいの?」
 出前の店のチラシやメニューがきちんとまとめられたファイルから視線を上げ、理奈の方に首を向ける。
「う、うん…冬弥君、こっちに来て」
「…うん」
 ぱたん。
 ファイルを閉じ、ラックに戻してから冬弥はベッドの方に戻る。そしてさっきと同じ場所、理奈の隣に腰掛けた。
「まだ、何か話があったんだ?」
「は、話…そうね、話…」
「どんな事でもいいよ。俺に言いたいのなら言って。考えなくちゃならないことなら考えるし、出来ることならするから」
 冬弥は優しい笑みを浮かべながら理奈に語りかけた。
 何か話があると断定するほどまでに冬弥が積極的になったのは、長いおしゃべりの中で親近感を強く感じるようになったからかもしれない。あるいは、おしゃべりの前に理奈が悩みを打ち明けてきたことで、信頼されているという思いを強くできたからかもしれない。いずれにしろ、理奈の態度が突然よそよそしくなったにも拘わらず、冬弥は理奈の事を比較的余裕を持って見ることができた。
 そう、由綺の事について「吹っ切れ」を示せた以上、これより大きな動揺を誘う話はないはずなのだ。
「どうかな…理奈ちゃん」
 理奈の顔をのぞき込むようにして言う。
「う、うんっ…」
「?」
 一瞬、理奈がびくっと小さく跳ね上がった。
 さすがに過敏と言える反応に、冬弥はいぶかしげな顔をする。ただ顔をのぞきこんだだけだし、言った言葉も理奈をうながしただけのものだ。驚いて跳ね上がってしまうような代物(しろもの)ではない。
「…はぁ…」
 理奈の表情が、ほのかに笑んだものになる。それは自分の変な反応をごまかす笑いなのか、何か自嘲している笑いなのか、冬弥にはよくつかめなかった。
 深呼吸のような息をついてから理奈は自分の太股をぎゅっとつかみ、身体を少し前傾させる。
「冬弥君…」
「うん」
 理奈は身体を軽く前後に揺すりながら言った。冬弥はごく普通に相槌を返す。
「私たち、恋人って言っても冬弥君はいいのよね?」
「…恋人…そうだね…うん、前の恋愛の整理をつけられていないって意味じゃ恋人って言えるのかどうかは分からないけれど…愛しているって意味では確実に恋人なんじゃないかな」
 冬弥はゆっくりと言った。
 出来るだけ簡単に述べたかったのだが、単純にし過ぎることがかえって理奈に不快を与えるのではないかと危惧した結果である。表現が曖昧になったぶん、冬弥は自分の態度が誠実に見えるよう努力した。
「…じゃあ、冬弥君は…由綺と、恋人としてどこまでの関係だったの?」
「由綺との関係…」
 冬弥は、てっきり精神的にどういう支えであったのかを問われているのではないかと思いこんで、真剣な表情になって相応しい表現を探し始める。
「う、ううんっ!そうじゃなくてっ!」
 だがその冬弥を、理奈は慌てて押しとどめた。
「…え?」
「ち、違うの…そんな、深い意味で言ったんじゃなくて…」
 理奈はぎゅっと口元を閉じて、少し潤みがちな瞳で冬弥を見つめる。
「つ、つまりっ!冬弥君……由綺と、一緒に寝たこと…あるの?」
「…理奈ちゃん」
 冬弥は思わずすぅと息を吸い込んでしまっていた。理奈は恥ずかしそうに顔を赤くしながらも、何かにしがみついているような切羽詰まった顔で冬弥の事を見る。
「…ない」
 喉の底から絞り出すような声が出た。
「…そう」
 理奈は表情を固くしたまま、ふぅっ、と息を吐き出す。
 冬弥は視線のやりどころに迷いながら、理奈の次の言葉を待っていた。下手をすると、理奈とは逆の方を向いたまま黙り込んでしまいそうである。と同時に、理奈の身体が脚の先から髪の先まではっきりと視界の中に現れるようになってきた。
 全体が一度に見えるのではなく、その時々で細かな部分がクローズアップされて視界を埋め尽くす。それは冬弥の錯覚だったはずだが、だからと言って動揺を煽られるのを止める事は出来なかった。
「真面目なのね?ふたりとも」
「え」
「なんか、イメージ通りって言えばそうだけど…」
「そう…なのかな」
 理奈の感想によって、視界が元に戻ってくる。冬弥は曖昧に受け答えをした。
 なぜか女友達の方が多くなりがちな冬弥にとって、世間一般でどういうレベルの関係を正常としているのかはよく分からない。それに、由綺も冬弥もそういった世間体のようなものを気にしないタチだったのだ。
 受験、デビューと忙しさの原因があった中で、唯一大学に入ってからの半年が比較的多く会える時間だったかもしれないが…妙に勉強に意気込んでいた由綺によって、二人は単位取得に精を出すことになってしまった。
 そのためにデビュー後も由綺が留年せず進級できたという部分はあるから、何がどう働くかは分からないものだが…
「ふぅ…」
 また理奈が息を吐き出す。
 理奈がそうしているのを見ていると、由綺が過去の恋人になりつつあり、理奈が今の恋人になりつつあるという事態がどうもリアルではなく思えてきた。実際、今日理奈がここに押し掛けてくるまではそれを確認できる手だてなど無かった。むしろ、由綺から様子をうかがう電話があったくらいだ。あのスタジオで黙って理奈の背中を抱きしめて以来、冬弥と理奈は会うことも電話で話すこともなかった。
 しかし実際に、「あの日のこと」と理奈に言われてそれを回想してみれば、自分の取った行動が理奈を恋人にするという宣言と同義だったと言われても仕方がない。そして、それを嫌がっているわけでもない。
 冬弥を混乱させる原因があるとすれば、由綺に対して冬弥が不満を感じているのは何もなかったはずだという認識だった。出来る限り客観的に見ようとしても、由綺に自分が不満を感じていたというのは肯定しがたい。会う機会が減ったこと、肉体関係を結んでいないこと。周りの人間に相談すれば言われそうな事だが、それが不満に結びついていたというのはどう考えても冬弥の感覚と違っていた。
 でも、理奈に惹かれているのは事実だ。由綺と恋人であるのと完全に矛盾するとしても、それは否定できなかった。
「冬弥君の恋愛観って、どうなのかわからないけれど…」
「え?」
 また聞き返すような声を出してしまう。非礼なことをしていると思いつつも、意識の混乱はそう簡単にしずめる事が出来なかった。
「…私はね」
 理奈が手を冬弥の手の甲にそっと重ねる。
 ひんやりとした滑らかな感触だ。温度が感じられないわけではない。とても上品な温度、というのが冬弥の抱いた感想だった。
「り、理奈ちゃん?」
 と言っても、実際にはそこまで冷静に観察できていない。冬弥は落ち着きを失って、理奈の事を見つめる。
 理奈はほんのりと頬を染めて、冬弥のことを静かに見つめ返していた。
「わがままかもしれないけれど、支えてくれるための記憶が欲しいって思うの」
「記憶…?」
「いつどこにいても、冬弥君がいてくれるって思うための想い出」
「それって…」
「まだ、そんなに頻繁には会えないと思うの。これからのスケジュールは教えるようにするし、そうすればテレビ局とかでたまには会えるかもしれないけど…」
 重ねた手に入れた力が強くなる。
「私に、冬弥君を忘れられなくさせて」
「理奈ちゃんっ…」
 冬弥の頬を汗が伝う。
「シャワー、借りるわね」
 声は多少うわずっていたが、瞳は熱く潤んで真剣なままだった。


 そこから、意識が飛んでいる。
 自分のマンションについているのと比べればかなり狭かったはずのシャワーも、下着だけで冬弥がシャワーを浴びてくるのを待っていたはずの時間も、何も覚えていない。自分から切り出した事だというのに、夢遊していたかのように理奈の記憶にはぽっかり穴が空いていた。
 いや、穴が空いていたと言うより、時間が歪曲してつながっていたと言った方がいい。
 理奈が気づいた時には、冬弥の顔が眼前に迫っていたのだから。
「………」
 ぼっ、と理奈の顔に火が出る。
 そして次の瞬間、唇が小さく重なった。
 既にあまりに近づいていたため、理奈の変化に冬弥は気づかなかったのかもしれない。気づいていたなら、何か起こったのかと問うていたのは間違いないと思われるほどの急激な変化だ。その直前までは、余裕を持った表情か、真剣だが落ち着いた表情であったのは間違いないのだから。
「んん…」
 次第に強く押しつけられてくる唇に、理奈は身体の力が抜けるのを感じた。そこまで来て、やっと自分が冬弥の背中に腕を回していたという事に気づく。理奈は自分がタイムスリップしてしまったのではないかと本気で疑ってしまったほどだ。
 ひとつは自分の記憶と行為の整合性に不安を覚えてきたきたこと。もうひとつは、大晦日の夜の事を思い出したからだ。
 あの時は、まだ…
「…ふ…」
 その回想は、入り込んできた冬弥の舌によって遮られる。ぎごちない冬弥のキスが、今はとても圧倒的に感じられた。わずかな動きが生まれるだけで、意識が溶かされるような気がしてしまう。
 舌の先と先を何度か触れあわせた後で、冬弥は身を離した。
「…あ」
 くたっ、と理奈の身体がベッドに向けて倒れていく。
 …ばさっ…
 冬弥は慌てて支えようとしたが支えきれず、理奈の身体をゆっくりとベッドに倒すことしかできなかった。
「冬弥君」
 膝の裏をベッドの縁に掛けた状態で、理奈が言う。
「…なに?」
 しかし、冬弥の問いかけに対して理奈は何も答えなかった。ただ、自然と呼びかけの言葉が出てきてしまったのだ。しばらくすると、冬弥もそれを理解した。
 冬弥は理奈の背中に手を回し、わずかにベッドから持ち上げて理奈の身体の向きをベッドに沿った形にした。ほとんど身体に力が入らない理奈の身体を動かすのはなかなか大変な作業だったが、なんとか冬弥は理奈の頭を枕に乗せる事に成功する。
 そして、冬弥はじっと横たわる理奈の肢体を見つめた。
 緒方理奈の身体が、今自分の目の前に無防備にあるという事実がうまく飲み込めない。キスをしている時は、互いの温度が緒方理奈と藤井冬弥という名前を忘れさせてしまう。だが距離を置いて観察をしてみると、やはり理奈の身体が自分の部屋のベッドの上に横たわっているというのはとても不自然な事であるように見えた。女の子を迎え入れた事すらあまりないこの部屋に、緒方理奈が下着姿で無防備に身を横たえている。
 …しゅる…
 冬弥は、理奈のブラジャーに手を伸ばし、軽く撫でてみた。見ただけでシルクと分かってしまう素材。身体のほとんどの部分が露わになっているというのに、やはり理奈はセルフ・パッケージングされていた。きめの細かいつややかな感触は緒方理奈の延長線上だ。冬弥の前で振る舞う「理奈ちゃん」ではない。理奈が口をつぐんでしまっていることもあって、冬弥はますますその感覚を強くしていった。
「理奈ちゃん?これ…はずしていいかな」
 その思いに沈み込んでしまわないよう、冬弥は理奈に問いかける。
「………」
 理奈は光を感じさせない目で冬弥の事を見ていた。
「…理奈…ちゃん?」
「…え…あ…ご、ごめんなさい」
「どうかしたの?」
「う、ううん、なんでもないわ…なにか今言ってた?」
「あ…こ、これ、はずしていい?」
「う、うん」
 理奈は背中を少し浮かして、自らそこに手を回す。
 ぷち。
 ごく小さな音。そして理奈はまた背中をベッドにつけた。
 冬弥がブラジャーの中心をつまんで引き上げると、するっと薄桃色の生地が理奈の身体を離れていく。
 そこには、ぴったりと整った形の理奈の乳房が見えていた。
 理奈はそこを隠そうとはしなかったが、吐息の音がすこし大きくなったようだった。お腹がほんのわずかに上下するのに合わせて、理奈が呼吸しているのがよくわかる。
「…っ」
 冬弥がそこに触れると、理奈が息を止めた。
 一瞬躊躇したものの、冬弥はそのまま手を二つの膨らみにかぶせる。きめが細かいのはシルクのブラジャーと同じだが、はっきりとわかるだけの温かさがあるのはブラジャーと違う。
(こうやって、直接理奈ちゃんの体温を感じた人間なんて世の中にひとりもいない)
 冬弥は自分の今感じている温度の意味を噛みしめる。もちろん、理奈の幼かった頃とか、手の平の体温とか、例外を言うことは出来る。だが冬弥にとっての理奈はアイドルとしての顔を持つ理奈以外ではありえなかったし、そこで感じる体温とはアイドルとしての顔とは別の場における体温でなくてはならなかった。
 もし理奈がアイドルではなかったならという仮定は成立しない。理奈は理奈であって、そこにいかなるプラスマイナスも加えることは不可能だ。理奈のアイドルとしての体温には意味がない。そこには何らかの形でのパッケージングが混ざってくるからだ。たとえ、それが理奈の手によるものだとしても。
 だから、こうして冬弥が今感じている理奈の体温は、何にも代え難いかけがえのないものなのだ。
 ぷにゅ…くにゅ
 少しだけ指に力を加えると、理奈の胸は柔らかく変形した。そして弾力を持って冬弥の指を押し返してくる。全体をくいっと動かしてみると、ぷるぷるとゼリーのように滑らかに震える。そして、また元の綺麗な形に戻った。
「…っはぁ…」
 ようやく理奈が詰めていた息を吐き出す。冬弥の指の動きを見ている目が、少し潤んでいるようにも見えた。頬もほんのり赤らんできたように見える。シャワーに入った後ですら真っ白だった理奈の肌が、少しずつ紅に移ろい始めていた。
 理奈はそのまま、はぁ、はぁという上がり気味の呼吸になる。一度呼吸を乱してしまうと、元には戻せないようだ。
「…理奈ちゃん…」
 冬弥はつぶやく。まだ早いとはわかっていても、理奈が興奮を覚えているようだという感激は大きかった。どんな時でも決して自分のペースを崩そうとしない理奈が、自分の愛撫によって落ち着きを失っている。
 嬉しさを覚えるのは不謹慎なようにも思えたが、冬弥はますます行為の虜になっていった。
 ふにゅ…ふにゅ、ふにゅ…
 指の動きが段々大胆になってくる。最初は表面を押し込んだり揺らしたりするくらいの動きだったのが、次第に揉んでいるという事がはっきりわかる動きになってきた。
 冬弥は新しい指の動かし方を試す度に理奈の反応をうかがっていたのだが、理奈が痛みや不快感を覚えている様子は全くない。それは大胆な動きに拍車をかけていった。
「んっ」
「ここ、痛い?」
 冬弥が、胸の先にある桜色の蕾を指先でつまむ。冬弥はさっきまでそこを刺激しないように注意深く避けていたが、わずかながら蕾が膨らみ始めたのを見て思わず触ってしまったのだ。
「大丈夫よ」
「そう…よかった」
 冬弥はもう片方の手で、逆側の蕾もつまんだ。そのまま、二本の指できゅっきゅっと挟み込んだり、左右に少しだけくりくりと回転させたりしてみる。
「…ふぅっ…」
 理奈が大きく息を吐き出した。悪くはないようだ。事実、理奈の蕾は冬弥が刺激するごとに少しずつ充血して膨らんでいた。その明白な反応に冬弥はのめりこんでしまう。軽く押しつぶしてみたり、ぴんぴんと弾いてみたり、蕾の周りをなぞるように指を動かしたり。片方の胸を揉みながら、もう片方の胸の蕾を刺激したり。手をつかって出来そうなことで、思いつくことは全部やった。
「冬弥君」
「…なに?」
 痛そうな程にぷっくりと蕾が尖ってしまった頃、理奈が不意に口を開く。
「そこ、好き?」
「え…いやっ…好きっていうか」
 突然の問いに、冬弥はしどろもどろになる。
「ふふ…ごめんなさい。ただ、ずっと冬弥君がそこばっかり触っているから、なんだか赤ちゃんみたいって思ったの」
「あ…あはは、そうかな」
「別に悪い意味で言ったんじゃないわよ。でも、なんだか可愛いなって思って」
「はは…」
 冬弥は空笑いをする。理奈は微笑みを浮かべていたし、他意がある様子もなかったが、突然赤ん坊と言われてしまうと自分のやっている事が妙に恥ずかしい事のように思えてきてしまった。
「え、えーっと…」
 冬弥は両手を胸に覆い被せながら、次の行動に悩む。
「…ごめんなさい、気になっちゃった?」
「い、いや、そんなことないけど」
 冬弥は誤魔化す。そして、手を胸から離した。
 しかし、胸以外の場所となると、もう行くべき場所はひとつしかない。
「んん…」
 冬弥は咳払いをしてから、改めてじっと理奈の肢体を見つめた。
 最初に比べれば、全体がぽうっと染まってきているのが分かる。そして、理奈の身体を唯一覆っているのは薄桃色の比較的シンプルなショーツだけだった。
 理奈は一瞬だけ冬弥と目を合わし、すっと横に視線を流す。
 冬弥はそれに合わせて、そうっと理奈の脇腹に辺りに手を這わせた。同時に理奈がぱちんとまばたきする。
「………」
 そのまばたきに幾分気を取られつつも、冬弥は慎重な動きで脇腹から手を滑り下ろしていった。引き締まったウェストからヒップに至るまでのラインを感じながら、理奈の肌の上を伝っていく。かなりゆるやかに動いていたつもりだったのだが、気づいた時には核心の部分に指が近づいていた。
 冬弥はそのまま指を進め、ショーツの端を指で引っかける。第一関節のところまで進めて少しショーツをまくり上げると、理奈は深呼吸のような息をして反応した。
「…いい?」
「ええ」
 理奈は語尾までしっかりと言い切ったが、そのせいでかえって固い響きに聞こえてくる。多少なりとも緊張しているのは確かだ。
 自分が理奈を緊張させているという実感が、冬弥にはいまひとつ持てなかった。さっき話をしていた時は基本的に互いが互いを緊張させていたわけだし、大晦日にキスをした時は両方とも意志というものをあまり感じていなかった。走り去ろうとする理奈をスタジオで抱き留めた時は、無我夢中だった。
 だから、自分のしている行為の意味を認識しつつ、理奈を緊張させるなどというのは冬弥にとって始めての経験だった。もちろん冬弥も緊張はしているが、どう考えても理奈の方が緊張するはずだ。冬弥はまだTシャツとトランクスを身につけているし、理奈の身体を触る方の立場なのだ。
 …ぐっ。
 しかし心の整理をつける前に、手が勝手に動いていた。
 ショーツがめくり上げられていく。手入れされていると思しきヘアがまず目に入り、その奥にうっすらと一本の筋が通って見える。そして指を動かすに従って、見える部分が大きくなっていった。
 やがて理奈の性器の全てが露わになる。外観を見た限りでは、スレンダーな理奈の肢体に合って、素直な形状をしているように思えた。
「………」
 冬弥は太股を通して、ショーツをさらにずらしていく。冬弥はゆっくりと膝を通し、足首に到達し、ついには爪先から滑らかな肌触りのショーツを抜き取ってしまった。
 そうしている間、冬弥は身体を理奈の脚の方に動かしながら下をうつむいていたために直接性器を見ることはなかったが、その理奈が最も他人に隠しているはずの部分は網膜に焼き付いて離れなかった。
 理奈ちゃんの、あそこ…
 冬弥は恐る恐るに顔を上げて、再び理奈の性器に目をやる。その瞬間、香水の香りが鼻をついた。
「あ…」
 それがショーツから漂うものであった事に、冬弥ははじめて気づく。ひょっとすると、ブラジャーにも同じようにかけてあったのかもしれない。だが、今の今までどちらの香りにも全く気づいていなかった。
「冬弥君…?」
 心なしか頬の紅をより強くしている理奈が、視線を横にそらしたまま声をかけてくる。
「な、なんでもないよ」
 冬弥はそう言ってから、改めて香水の香りをじっくりと感じてみた。理奈のイメージにあった、爽やかだが少し華やいだ印象も受ける香りだ。果物の香りを連想させる。
 その演出的な香りの使い方ははいかにも理奈的だったかもしれないが、不思議とそれによって冬弥の心は落ち着いた。香りというものが、極めて曖昧な存在感を持っているものだからかもしれない。あまり強くアピールする事なく、比較的自然な形で理奈や周りの雰囲気にフィットしていくのだ。
「………」
 冬弥はさっきよりも、ずっと落ち着いた気持ちで理奈の性器を見つめることができた。身体の位置をまた元に戻して、かなり近い距離から理奈の性器を見つめる。
 すらっと伸びた脚の間、ふっくらと膨らんだ形状の中に、さらっとした感じのヘアが縦につながっている。その奥にあるぴったりとした割れ目。
「触るよ…」
「………」
 理奈は何も言わず、ただ背中を少し動かして息を小さく吐き出した。
 冬弥の指が、ヘアの間に分け入って割れ目の少し左の辺りに触れる。そして、軽く左にスライドして、割れ目をわずかながら開いた。
 奥に、鮮紅色の唇が見える。何にも侵されていない理奈の処女地が向こうに広がっているはずだった。
 ここまでに比べれば、格段に理奈の中の部分を感じさせる場所である。冬弥はこれまでで最も長い躊躇を挟んでから、神経を最大限に張りつめさせた状態で割れ目の中に指を入れていった。肌の延長の柔らかな部分を経て、ついに冬弥の指が理奈の性器に掛かる。
「ん…」
「痛く、ない?」
「大丈夫…そこは」
 理奈の答えに、冬弥はしばし考え込む。
 そして、指をするっと中から出すと、少しだけ舌を出してそこに自分の指を当てた。そのまま何度か動かして、唾液を指につける。
「こうした方がいいんだよね…?」
「多分…」
 冬弥のしている事を見ながらも、理奈は曖昧にしか返事をしなかった。どうやら、本気で答えを迷っている様子である。この先は、理奈にとっても未知に等しいゾーンのようだった。
 確かに、生活的な行為以外でそこに触れることなど理奈にはないのだろう。仮に生活的な行為であったとしても、理奈が自らそこに触れているという状況は冬弥には想像し難い。ましてや、やましい目的で理奈がそこに触れている状態など冬弥にはまるで想像できなかった。事実、していないのだろう。
「………」
 唾液で濡れた指を、冬弥はさっきと同じような慎重さで理奈の割れ目の中に忍ばせていく。そして再び、先ほどの唇の部分に触れる。
 ねっちりした感触があるそこを、冬弥は指を差してわずかながら広げた。思っていたよりもスムーズに唇が開いて、指が受け入れられていく。
「ちょっと…いい?」
 冬弥が理奈の太股に手を当てて、軽く押し広げようとする。理奈は素直にそれに従った。
 それによって、理奈の唇は指の動きに極めてスムーズに従うようになる。冬弥は入れる指を二本にして、見える範囲を大きく広げた。
「っ……」
 さすがに理奈は恥じらいの色を顔に表すが、自らシーツをつかむ事で耐え忍ぶ。冬弥はしばらくの間理奈の反応をうかがっていたが、少なくとも痛みを訴えている様子はなかったので自分の広げた部分をじっと見つめ始めた。
 中は唇と同じ色をした鮮紅色で、ひだ状になっているのが見た目にも感触の上からも分かる。かなり複雑ではあったが、その中で重要な器官がどこなのかは冬弥にも何とか理解する事ができた。
 これが、理奈ちゃんのなんだ…
 上手く噛み合わない二つの要素を、冬弥は理性によってくっつける。実際、何も考えずに見たならばその部分は少々肉体的すぎるように見えるだろうし、それが理奈の身体から続いているという事も冬弥にはやはり信じがたい。だが、冬弥はそういった思考を挟み込んでしまう事に段々罪悪感を覚えつつあった。沸き上がってくる違和感を打ち消して、理奈の身体の全体と広げた性器の中を何回も見比べる。唾液で滑らした指で、ちょこちょこと理奈の唇の中をまさぐる。そして、理奈としての全体イメージを自分の中に確固として作り上げていく。アイドルとしての要素も、普段の顔も、全てを脱ぎ去った姿も内包したイメージだ。
 そういう事を自分がまだ済ますことが出来ていなかったという事実に冬弥は多少の狼狽を覚えたが、出来る限り集中して冬弥はその作業を進行させていった。
 結局、自分はいつ何時も将来の事を考えて行動していない。そういう自己嫌悪の感情も、今は比較的プラスの思考に組み込む事が出来るようだった。積極的に、積極的に。前へ。そして前へ。少し不思議なほどの自信が冬弥には生まれつつあった。
 それは二十歳の誕生日にまだ童貞だった事を不安に思った時の裏返しとしての、空虚な自信だったかもしれない。しかし冬弥は何であろうと使ってやるという気分になっていた。今はただ力が欲しかった。
「冬弥…くん?」
 その時、理奈が口を開いた。
「え?あ、何でもないよ。ちょっと…」
 もう一分以上、意識を別の所に置いていたかもしれない。冬弥は恥と申し訳なさで動揺する。
「ちょっと…?」
 理奈はますます不安を顔につのらせているようだった。確かに、この状態で考え込まれてはいらぬ想像を膨らまさずにいられないだろう。
「い、いや、考え事考え事。やっぱ緊張しちゃってさ」
 核心の間近に直接触れながら軽い口調になるのは難しかったが、冬弥は無理矢理やってのける。だがやはり、それは理奈の不安を全く解消していないようだった。
「んんっ…」
 冬弥はさっきと同じように、また咳払いをする。
「…まず指、入れるよ?力抜いて…」
「うっ…うん」
 状況を打破するには、別の要因で理奈を動揺させるしかなかった。冬弥はだいぶ後ろめたさを感じたが、狙いはうまくいったようで理奈の表情がかなり固い物になる。シーツを握る手の力も強くなったようだった。
「いや、力抜いて?」
「あ、あ…そうね」
 理奈はぱっとシーツから手を離した。そして、両手をやや広げ気味の角度でシーツの上に置く。
 冬弥は、唾液もかなり乾きつつある指を一本、理奈のひだの奥まった隙間にあてがった。
「いくよ」
「うんっ…」
 理奈のうなずきは、医者にかかる素直な子供のように不安と委ねで彩られていた。冬弥は罪悪感を募らせてしまったが、思い切って指の先を理奈の膣口に差し込んでいく。
「………」
 順調に入ったのは初めの少しだけで、すぐに冬弥の指は容易には進まなくなってしまった。抵抗する肉を押し広げるような感じで、冬弥は少し少しと指を進めていく。理奈は少し脚の辺りに入れる力を強くしたようだったが、それ以上の変化は見せていなかった。
 ぐぐ…
「っ」
 しかし、ある程度まで指が進んだところで理奈の表情が一変する。同時に、冬弥の指先に感じられる抵抗感も格段に大きくなった。
「指から…それからの方がいいと思うから…理奈ちゃん、我慢してね…」
「だ、大丈夫よ、冬弥君」
 理奈は口元に少しだけ笑みを浮かべる。
「息吸ってみて…」
「うん」
 理奈がすぅ…とゆっくり息を吸い込んでいく。その間に紛れるように、冬弥は指を力一杯に押し込んだ。
 ずちっ…ずぶ…
「あつっ…あっ…ああ」
 理奈がかすれた悲鳴を上げる。冬弥は、理奈に傷を与えていると明確に認識していたが、長引かせるよりはと入るところまで指を一気に突っ込んだ。
「は、入ったよ…理奈ちゃん」
「うん…わかる…」
「痛かったでしょ?あ…」
 冬弥がずる、と指を抜くと、鮮血が冬弥の指に絡んでいるのが見えた。紅は性器から零れ出て、理奈の真っ白な肌にまで伝っていく。
「い、いいの、誰でもこうなんだから…それに、まだ終わっていないわよ」
「そう…だね」
 冬弥は小さくうなずく。
「………」
 自分の勃起が妙にハッキリと感じられて気恥ずかったが、唯一身につけていたトランクスを冬弥は素早く脱ぎ捨てた。理奈が、その視界の隅に剥き出しにされた冬弥のペニスを見やる。
「理奈ちゃん…」
 隠すわけにもいかず、冬弥は困惑した。
「私だって見られてたんだから…いいでしょう?」
「そりゃあそうだけど」
 冬弥はぎごちなくシーツの上を移動して、理奈の身体の上に身を覆い被せていった。当然、理奈の目にはよりくっきりとペニスが見えるようになってしまう。
 理奈の上品でクールな瞳がそんな浅ましい器官をしげしげと見つめているというのは、先ほど冬弥が作ったイメージからも対象外だった。何とか冬弥はイメージの修正をしようと試みるが、簡単には上手くいかない。
「なんだか、こんなの理奈ちゃんに見られてるってのもね…」
 仕方なく、冬弥は思うままを口にした。
「あら、私だって女だし、見たことがないものは見たいって思うわよ」
「そうだけど」
「立派だと思うわよ、冬弥君の。他の男の人の見たこと無いからわからないけれどね」
 理奈は微笑んで言う。
「りっぱって言われるのもなんだか…からかわれているみたいだ」
「すっごく大きいのね、って言えば良かった?」
「それもちょっと」
「難しいのね、男の子って」
「そんなもんだよ。だって、俺が理奈ちゃんのをいろいろ言ったら恥ずかしいでしょ?」
「そうかも、しれないわね」
 理奈はやはり微笑んだ。
 冬弥は毒気を抜かれていたが、ペニスの方は全く衰えを見せていない。そして、本能的な衝動は理奈を奪ってしまいたいと先程から叫んでいた。
「…いい?理奈ちゃん」
 会話の流れを微妙に断ち切る形になったが、冬弥は理奈に訊く。
「ええ、どうぞ」
 さらさらとサインペンでも滑らせ始めそうな口調で理奈は言った。冬弥の中に、またアイドルとしての理奈がちらつき始める。
 もっとも、それは冬弥の錯覚かもしれない。強引に作り上げた、素顔でもあってアイドルでもある理奈のイメージは不安定すぎて冬弥を混乱させる。適当に区切って理奈を理解した方が、どれほど簡単か知れなかった。それでも冬弥は懸命に理奈のイメージをひとつにまとめあげようと試みた。困難な試みだ。
 その試みを安定させるべく、冬弥はペニスを理奈の血がついた部分に触れさせた。
「………」
「本当にいいんだね?」
「ええ」
「後悔…しないよね」
「しないわよ」
「じゃあ、いくよ?」
 冬弥が確認すると、理奈は無言で首を縦に振った。そして結合しようとしている部分をじっと見つめ始める。
 ペニスに突き刺さってくるような理奈の視線を感じながら、冬弥はぐいと腰を前に送った。
「うっ…」
 理奈が小さく声を出す。
 指を入れた時と同じく、最初の少しは比較的スムーズに入ったがそこで強い抵抗に冬弥のペニスは阻まれた。さっきとは入ろうとしているモノの大きさが違う。抵抗も段違いに強かった。
「ごめん…」
 一言謝って、冬弥は重々しく腰を突き出す。強めの力を延々と加え続けていると、少しずつ肉棒が理奈の中に飲み込まれていった。
 理奈は少し顔をしかめていたが、露骨に苦しみを訴える事はしない。しかし身体が小刻みに震えている。耐えているのだ。入れている冬弥の方が心苦しくなるほどに痛々しい。処女膜を破っていく感触だけでも、どれほど理奈に苦痛を与えているのか想像できる。
 こつ…
 恐ろしく長い挿入を経て、やっと冬弥のペニスの先が理奈の子宮口にぶつかる。
「入った…ね」
「……うん」
 痛みを隠しきれていない、つぶやくような返事だ。冬弥は胸が締め付けられるのを感じた。ペニスには入れているだけでじわじわとした快感が生まれてきていたが、冬弥は引き抜いてしまいたいという思いを強くしてしまう。
 入れるときには自分が最後まで達して当然のように思えていたが、理奈の苦悶を見ていると何故そうしなくてはならないのかが分からなくなってしまった。
 …ぐっ。
「…えっ」
 そして冬弥は衝動的にペニスを理奈の中から出す。
「…もう、いいよ」
「………」
「理奈ちゃんが言う、忘れなくするっていうのならこれで十分じゃない?」
「…でも冬弥君は」
「俺は大丈夫。理奈ちゃんの中に少しでも入っていられたってだけで最高の気分だよ」
 冬弥は出窓に置いてあったティッシュボックスからティッシュを何枚か取り、血に濡れたペニスを拭いてしまった。
「…冬弥君」
 理奈は拭き終えられた冬弥のペニスを見る。乾いた血の跡がすこしだけ残ったペニスは、行為が終止されたという象徴を感じさせた。それは熱い粘膜の中に再び入る能力を失っていると思わせるほどにさっぱりと乾いてしまったのだ。
「理奈ちゃんも、俺のが入っていたのよくわかったでしょ?」
「男の子って、気持ちよくなりたいんじゃないの…?」
「それはもっとあとでもいいよ。俺と理奈ちゃんにとって、今はこれでいいんだと思う」
 冬弥の微笑みながらの断言に、理奈はしばし考え込む。
「……ちょっと、お願いしてもいい?」
「え?なに?」
 その黙考のあとに、理奈はぽつりと言った。
「………」
 理奈は黙ったまま、ベッドの上に上半身を起こす。理奈の中から垂れた血が、ベッドのシーツに点々とシミを作った。
「触ってみても、いい?」
「…え…それって」
「冬弥君の、これ…」
 座って向き合った状態から、理奈はそろりと手を伸ばしてくる。
「…べ…別に、いいけど…」
 気後れしながら冬弥が言い終わる頃には、理奈の手がペニスに絡みついてきていた。
 一瞬とはいえ交わった後なのに、理奈の手はひやりと冷たい。熱いペニスはその冷たさを敏感に感じて、一本一本の指がどうなっているのかわかってしまうほどだった。
「熱い…のね」
 理奈はどことなくぼうっとした声で言う。瞳もそれと同じくらいにはぼやけていた。
 しばらくの間、軽い力で握りしめられていると冬弥も欲望が再燃焼してくる。それを感取られないように、冬弥は必死になった。意識を理奈の指からそらそうとして、壁に掛かったカレンダーの日付を1から31まで数え始める。
「こうしていると…興奮する?」
「…り…理奈ちゃん」
 本人からの問いかけに、冬弥は否応なしに理奈のタッチを感じてしまった。
「私、冬弥君のこれを気持ちよくしてあげられるかな」
「い、いいよ…俺だって満足したんだし…いっ」
 理奈がペニスに触れる手を両手にして、おずおずと表面を撫でる。清潔な理奈の手の平にペニスを転がされるのは恐ろしく背徳的だった。
「い、痛いんじゃないでしょ?」
 言いながら、理奈は両手の手の平でペニスを挟むと、上下にさすり始める。
「………」
 慣れない手つきの手淫だったが、理奈の自信無さそうな目とひとつひとつ確かめるような手の動きは十分に扇情的だった。冬弥は押し黙って理奈の手の動きを感じる。止めるべきだという思いもあったが、それを口に出すためには理性が既に薄れてしまっていた。神経を使いながら理奈を抱く作業で、冬弥は疲れきってしまっていたのだ。
 理奈は丁寧にペニスを上下にこすり続ける。途中で袋を触ってみたり、両手の手の平で挟んだペニスを原始人が火でも起こしているかのような手つきで回したりしたが、結局は元通りに手の平で挟んだペニスをそのまま上下に擦る動きになっていた。
 多少物足りない刺激なのは確かだったが、理奈の純潔な手が自分のペニスを気持ちよくさせようとしているというだけで、背筋はぞくぞくとする。いつまで経っても理奈の指はひんやりとしていて、理奈が触っているのだという事を冬弥に感じさせ続けていた。
「り、理奈ちゃん…もういいや、このままじゃ…」
 時計の針が十回ほど回った辺りで、冬弥は理奈に告げる。
「え…冬弥君、射精しそう?」
「う、うん…」
「男の子って、こうするだけでも射精できるのね…」
 理奈は不思議そうな顔でペニスをこすり続ける。
「い、いや、だからもう…」
「射精するところ、見てみたいんだけれど…だめ?」
 二十歳を過ぎているとは思えない、少女のような好奇心だった。あまり恥ずかしがっている様子もない。むしろ冬弥の方が恥ずかしい。
「い、いや、ここじゃ…汚れちゃうし」
 冬弥は適当な理由をつける。
 しかし、理奈は冬弥のペニスから手を離すと、出窓のティッシュボックスから両手にいっぱいのティッシュを持ってきた。
「これでいい?」
「理奈ちゃん…」
 冬弥は諦めきった声を出す。
 理奈はティッシュをボールのように丸めて片手で持つと、冬弥のペニスを片手だけで上下にすり始めた。刺激としては不十分極まりないのだが、理奈の紅潮した顔にしげしげと見つめられているだけで血流がどんどんペニスに流れ込んでしまう。
「………っ」
 時計が一回転して、冬弥は我慢の限界を迎えた。
 ぴゅっ!
「あっ…!」
 理奈が目を見開いて、驚いた声を上げる。
 ぴゅっ、ぴゅっ、ぴゅっ。
「あ、あ…」
 我に返った理奈がティッシュで冬弥のペニスを押さえつけようとするが、2秒ほど遅かった。熱い白濁した液が飛び散り、シーツに降りかかる。
「はぁ…ご、ごめんなさい…こんなに…なるんだ…」
 ペニスをティッシュで覆ってから、理奈が言った。
「う…うん」
 冬弥は気まずくうなずきながら、理奈の顔を見る。気づいているのか気づいていないのか、飛び散った液体は理奈の頬と髪の二箇所にべっとりとへばりついていたのだ。悪くすれば、唇や目にかかってもおかしくなかった。
 不完全な刺激だったせいか中途半端な射精をしてしまったペニスが、それだけで残った精液を吐き出してしまいそうだった。


 それからしばらくの間、冬弥とは会っていない。理奈が望んだわけではなかった。冬弥が望んだわけでもなかった。ただ、会わなかったのだ。日常において接点を作れない二人は、どちらかが訪れようとしない限りは出会うことができなかった。
 ソファーに寝転がったまま、理奈は睡魔に引き込まれてしまいそうになる。このまま寝てしまうというのは極めて魅力的な相談だった。夢で、冬弥に会いそうな気がした。
 だが、理奈はソファーに起き上がり、頭を数回振って乱れた髪の毛を元に戻す。
「………」
 おまじないのように理奈が唱えたのは、最新曲のメロディだった。バラードだ。そのメロディを流れるように口ずさんでいると、ほとんど存在を失いつつあったようなBGMのクラッシックのメロディが聞こえるようになってきた。さっきまでは大した魅力を感じなかったチェロの音が綺麗に聞こえた。
 理奈は立ち上がる。
 自分の部屋に行って、冬弥にずっと前もらったオルゴールの音色を聴くつもりだった。
 そういう象徴的な冬弥と対話し続けることが。一回的な冬弥への訪れを、まとまりのつかないリアルな逢瀬を、徹底して抽象化する事が。理奈を少しずつ変えていく。理奈と「緒方理奈」の間に生じた誤差を、少しずつ埋めていく。性急な変化によって完全に理奈を壊してしまわない程度に。
 それが最後まで達成されるまで、理奈は寂寥感を沈殿させては沸き上がらせる繰り返しを幾度も経験するはずだった。それを覚悟していた。
 ………
 理奈は涙を拭いた。