茜[表裏]


 雨の降っている日には、独特の匂いがある。
 梅雨どき、始終雨の降っている時ならそれも鼻につくようになるが、乾いた快晴を十分に堪能できる季節であれば、雨のどこか憂鬱な香りも甘さめいた感情をもって迎え入れる事が出来るというものだ。
 サー…
 今降っている雨は、ちょうどそのような雨だった。3週間も晴れが続いた後の、静かな雨。勢いもそれほど強くなく、アスファルトを黒く濡らす程度の落ち着いた雨だ。水たまりもできないし、傘だけでは荷物や衣服を隠しきれないという事もない。
 雨が好きな人間が、詩情たっぷりに散策をするにはもってこいの雨だと言えよう。しかも今日は日曜日だったのだ。
 そういう日に、地面が剥き出しになった空き地に佇んでいる人間がいる。
 勿体ない。
 それが、少年の評価だった。
 いかにささやかな雨と言えど、地面が剥き出しのところは土が泥になってしまう。上品とは言えない感触で、汚らしく靴に絡みついてくる。現に、空き地にいる人間の靴は、ずぶりと土の中に沈み込んでいた。
 沈んでいると言ってもそう大したレベルではないのだが、少年にはまるで靴が8割方土の中に埋め込まれているように見えてしまう。靴のほとんどの部分に泥がこびりついているからかもしれなかった。
 挙げ句の果てに、持っている傘はピンクである。およそピンクという色は、あらゆる高尚な感情に似合う色ではない。というのが少年の断定だった。
 もっとも、少年がここまで詳細な評価を下すに至ったのも、空き地にいる人間が少年にとって魅力的な少女であったからかもしれない。三つ編みにした長い巻き毛と、白い肌に内包された何とも言えないメランコリ。
 ポエティクな少女だ、と少年は思った。きっと彼女には詩が良く似合う。
 そういう感覚を理解するなら、こんな雨の日にピンクの傘を持って泥にまみれた空き地にいるべきではないのだ。
 少年は心の中で深くうなずいた。
 うなずいた顔を上げると、いつの間にか少女はこちらを見ている。
 少し冷たい瞳だった。
「………」
 それから目をそらし、何事もなかったかのように少年は歩みを進めようとする。これは一過性の出来事だったのだ。
 だが、少年の動きを少女は目で追った。
「………」
 少年は視界の端で少女を捉えてから、周囲を見回してみる。
 少女と少年の他には、誰もいなかった。
 そこで、もう一度少女に視線を向けてみる。
「………」
 少女は、少年から未だ視線を動かしていなかった。
 そこで少年は、合ってしまった視線をもう少し維持してみた。やはり彼女は視線を動かさない。唐突に訪れたアイ・コンタクトがずっと続けられている。
 少年はそこから意味を見出そうと試みた。しかし、少年の持つ隠喩の技術は何をも教えてくれなかった。
「…あの」
 声をかける。
「なんか、用ですか?」
 この段階で声を掛けてしまうほどに、少年は馴れ馴れしい。
 当然のごとく返答はなかったが、少年は少女に向かって第一歩を踏み出す。彼がついさっき汚濁だと評価した空き地に、だ。
 少女は返答をしないものの、視線はそらしていなかった。向かってくる少年を、同じ色の瞳でじっと見つめている。友好的とも取り難かったが、敵対的ではないように思えた。
 ぬぷっ、とした感触の土。出来るだけ体重を掛けないようにして進んでいく。
「何してるんですか?」
 足元も気にしながら、少年は問う。
「こんなとこで、普通誰も待ちませんよね」
 既に少女まで4,5歩というところまで来ている。しかし少年は躊躇もせずに少女に近づいていった。
「なんか、用ですか?」
 再び問う。
 少年は、手を伸ばせば少女に届きそうなところまで来てから、やっと歩みを止めた。
 その停止に呼応するようにして、少女はふるふるとかぶりを振る。三つ編みがほんのわずかに揺れた。
 しかし、否定したにも拘わらず、その視線は未だ少年の方を向いている。
「確か、知り合いじゃないですよね」
 …こくん、と今度は肯定した。ただし、先ほどの否定に比べると、やや戸惑いがあったようにも見える。
「僕も、そうだと思うんですけど」
「…ごめんなさい」
「え?」
 唐突に少女が口を開いた。
 少年は敢えて少女が言葉を交わすことを拒んでいたのかと思ったから、拍子抜けしてしまう。
「なんだか、昔こういう光景を見たような気がして、気になってしまっただけです」
 少女はつまらなさそうに下を向いてしまっていた。
「昔からこんな事してたんですか?」
 自分と感性は近いかもしれない、などと少年は思い始めている。
「たぶん」
「たぶん…って、なんでです?」
「自信がないだけです」
「こういう事してることに、ですか?結構雰囲気あると思いますけど」
 極めて主観的な評価。それに対して、少女はまた、ふるふるとかぶりを振った。
「こういう事をしていた、という記憶にです…」
「??」
「本当に、私は昔からこういう事をしていたのかって」
「そりゃ…していたならしていたんだし、していなかったならしていなかったってそれだけでしょ」
「しているのは間違いないです」
「だったら」
「でも」
 意外と強い調子で、少女は遮った。
「なんでこういう事をしているのか、理由がわからないから、本当に自分がこういう事をしてきたのか自信がなくなるんです」
「??」
 少年はわからなくなってきた。
「理由がわかれば、今日までこうして来たのは何かのためだと理解できますけど、理由もわからずこんな事をしていると、ひょっとして自分は今日初めてここに来たんじゃないかって思えてくるんです」
「うーん…」
 今ひとつ飲み込めない。
「…ごめんなさい、身も知りもしない人に、よくわからない事をしゃべってしまって」
 ため息混じりの声だ。
「い、いや、僕もそういう話好きだし、いいんですけど」
「そうですか」
 少女は再び興味を失ってしまったような声色で言った。
「…なんだか、昔、今と似たような光景を見たような気がしたものですから」
 そして、さっきと同じ台詞を繰り返した。
「じゃあ、実際に見たんじゃないですか?」
「そうかもしれませんし、違うかもしれません」
「懐疑的ですね」
「それで構いません」
「そうですか」
 話が終わってしまった。
 少年はもっと話を続けたかったのだが、少女の瞳があまりそれを許してくれない色になっていた。彼女の目にはもう少年はほとんど映っていない。
「…なんか、ひょっとして、昔会っていたらって思うんですけど、お名前教えてもらえませんか?ずっと昔だったら、忘れちゃってるってことあるかもしれませんし」
 それでももう一度トライする。
「…里村、茜といいます」
 下を向いたまま言う。
「里村、茜さんですか…」
 悪くないですね。
「うーん、やっぱりちょっとわからないですけど。記憶が戻るといいですね」
「そうかもしれません」
 勝手に記憶喪失者に仕立て上げられたにも拘わらず、茜は適当な返事しかしなかった。
「それじゃ…雨の時にあんまり外出ていると、風邪引いちゃうかもしれませんよ」
 自分の事を棚に上げて、少年は言う。
 それについては、茜は反応しなかった。
 少年は茜の事を気にしつつも、空き地から慎重な足取りで出ていく。靴にはべっとり泥がついてしまっていた。
 やれやれと思いつつ、少年は靴の裏にこびりついてしまった泥を歩道に叩きつけた。それからもう一度、さっきと同じ体勢のままの茜を見てから、その場を去っていった。
 –––その日の事を少年はうまく詩に出来なかった。
 あれだけの題材を与えられておきながら、と地団駄を踏みつつも、詩的な世界だけにかえって詩にしにくいという逆説がそこにはあったのだ。
 傷心(しょうしん)のままTVを見ていた少年に、天気予報のアナウンサーは明日も雨だという事を告げた。昨日までの予報と違う。普段なら彼は怒るところだったが、今回ばかりは違った。
 少年は、雨の日に茜があの空き地に来ているという事を不思議なまでの純粋さで確信していた。
 茜の詩化、という一つの欲望に彼は囚われたのだ。
 当然、それが昇華された側面であるとするなら、その原点となるべき地点には少年の若々しい性欲があると見るべきかも知れない。少年はその点について、不十分に自覚的だった。


「こんにちは」
「………」
 あまり歓迎していない目だった。
「迷惑ですか?」
「ええ」
 少年の方を向きもせずに、はっきり言う。
「そうですか」
 だったら、少しは申し訳無さそうな顔をすればいいのだ。
「でも、なんでひとりでいたいんですか?」
「………」
 茜は相当嫌そうな顔をして少年の事を見た。
「………」
 少年は表情を変えずに、その視線に応える。
 二人はしばらく見つめ合ったが、やがて茜の方から目を逸らした。根負けしたという風でもなく、単に興味を失ったとばかりに。
「茜さん、目的がわからなくても、それを思いだそうとはしないんですか?」
 ちょっと方向性を変えて少年が問う。
「………」
 今度は特に嫌な顔をする事はなかった。ただし、言葉を返す事もない。
「それを思い出さない限り、茜さんはこの空き地から出られないんじゃないですか?」
 少し言葉をひねった。
「…夜には帰ります」
「一時的なものじゃないですか?」
「雨の日よりも、晴れの日の方が多いですから」
 どうしても少年の比喩につき合う気はないらしい。
「でも、茜さんの中では時間が永久ループになっちゃってるじゃないですか」
 それでも少年は頑張った。
「………」
「このままじゃ、何の目的だかわからないような時間が、何回でもぐるぐる回ってくるだけだと思いますよ」
「…構いません」
 ようやく、茜は少年の言葉に答えた。大した意味もない言葉ではあったが、少年は多少気を良くする。
「なんで構わないんですか」
「私が良ければ、それで他の誰に迷惑がかかる話でもないですから」
「そんな事ないでしょう。家族の人とか友達とか、きっと知ったら心配しますよ」
 それなりに強力な一般論だ。少年はやや言葉に力を込めた。
「…気づいていないはずです」
「ほんとですか」
「ええ」
「茜さんがそう思っていても、実際には違うって事もありえますよ」
「じゃあ、どうやって説明すれば信じてくれますか?」
「えーと…」
「どうやっても説明できないものを説明する気にはなれません」
 だからもうどこかに行け、という含意がある。茜は冷ための視線で少年を見据えた。
「でも、今の状況はポジティブじゃないですよね」
 ペースを奪われないよう、間髪入れずに少年は話題を変える。
「…積極的なら全ていいという事もないでしょう」
「でも、わざわざ消極的になる必要もないと思いますよ」
「そうしたい場合もあります」
「よくわかりませんね」
「間違いないのは」
 茜は語気を強めた。
「あなたがしている事が、私のしたい事と正反対だということです」
「…ちょっと賛同しかねますけど」
「私にはそう感じられるんです」
「でも、僕は茜さんの行動はもっと前に進むべきだって思えてなりませんけどね」
「だから、平行線なんです」
「…はぁ」
 少年は打つ手を失ってしまった。
「まだ何か言うことがありますか?」
 茜が追い打ちをかける。
「…帰ります」
「それがいいです」
「でも」
「…なんですか?」
 その逆接を多少は予想していたのだろうか、茜が疲れたような声で聞き返す。
「茜さんの気が変わるまで、僕はずっとここに来ると思いますよ」
「迷惑です」
「と言っても、ここは茜さんの土地じゃないですからね」
 将来、佇むためだけに空き地を数坪買うのも面白い、などと少年の思考は微妙にそれた方向にも動いていく。もちろん顔には出さなかった。
「…そうですね」
「不法侵入はお互い様ですから」
「…わかりました」
 目を閉じ、疲れ切った声で言う。
「じゃあ、また」
「さようなら」
 微妙に食い違う別れの挨拶。
 少年の時計では、たった二分間の出来事だった。
 その間、雨は篤実にこの地に降り注いでおり、かすかな風が常に二人の服を掠めていた。だから、少年の黒いTシャツはしっとりと濡れてしまっている。マリンブルーの色をした傘だけでは雨粒を防ぎきれないのだ。
 いつもの少年にしてみれば60点と言ったところの雨だったが、少年は雨自体に評価を下す事への興味をだいぶ失っていた。茜の元に通い詰める営みはあと二回や三回で終わるはずもないのだ。
 今後少年の元に訪れる雨は、捨て石的に消費される可能性が高いのだ。
 …そして、この時行った予測に違わず、少年は雨が降る度に茜の所に赴いた。
 一度たりとも、少年が赴いたのに茜がいないという事はなかった。平日だろうと休日だろうと空き地にいる茜を見て、一体茜は何をして暮らしているのだろうと疑問に思ったほどだ。
 ただし、二人が会う時間は短かった。長くて5分。ひどい時には、1ヶ月会っていなかったのに30秒で済まされるという事もあった。少年が切り込み、茜がかわす。茜が少年をはねつけ、少年は捨て台詞と共に逃げ帰る。その延々とした繰り返しだった。
 ただ、季節が過ぎるほどに雨は冷たくなっていったし、二人の着ているものもカーディガンやセーター、トレーナー、パーカーといったものに変わっていった。
 雨も風も刺すように冷たくなってくる季節。詩情には程遠い雨。普通なら、外に出たくもないような天気。それでも少年は空き地に赴いたし、茜はいつもそこにいた。そこで、噛み合わない会話が展開された。
「…あ」
 ある日、少年は街を歩いているときに、白いものがちらついているのを目にした。
「………」
 黒のマフラーを整えながら、少年は灰色の空を見上げる。
 しばらく、お預けかな…
 透明感のある茶髪に落ちてきた雪を軽く指で払いながら、少年はしっとりとした寂寥の思いを感じていた。
 –––もう、あなたと出会ってから、三月(みつき)が過ぎてしまいました–––と。
 詩など、もう長い間書いていない。ただ、断片的なフレーズは浮遊してくる事もあった。大して上手い文句でもない。突き詰めれば、少年の嫌いなポップのラヴソングと同類項になるようなものだ。
 それからしばらくは雪も降らなかった。雨も降らなかった。この街は太平洋側に属しているのだ。
 だからといって、冬の間ずっと雨が降らないと言う事もない。
 ザー…
 何かの間違いで眠り込んだなら、確実に凍死してしまいそうな天候になった事があった。
 気温は、氷点下から多少抜け出しているといった程度だ。コートを着なければ寒すぎるし、コートを着れば水滴に濡れて不快になる。そういう、外に出るには最悪の天気があった。今時、気の利いたレインコートを持っている若者などあまりいない。
 それでも、少年は黙々と準備した。シャツを2枚とセーター、分厚いコットンパンツ。重すぎず軽すぎないハーフコート。それにマフラー。家にあった中で一番大きな傘。
 ザー…
「ひえー」
 少年が外に出ると、そこには冬に滅多に見られないほどの強い雨が降っていた。
 アスファルトにたまった水を、ゴム底のスニーカーで誤魔化せるだろうか?
 ぴちゃっ、ぴちゃ…
 …無理なようだった。歩く度に地面から水が跳ねる。靴下の辺りが段々と湿ってくるのを防げそうもない。しかも、傘の柄を持っている指はこの上ない寒さにかじかんでいた。少年は、普段着と合わせて使えるような手袋を持っていなかったのだ。
 と言っても走ってしまえばますます水が跳ねて悲惨になる。少年は身体の露出している部分だけから染み込んでくるような寒さに耐えつつ、地道に歩みを進めていった。
 非常に厳しい行軍ではあったが、それほどみじめさはない。歩いていった先に、目的の人間がいる事を確信しているからだ。この程度の雨で来ないようだったら、雨が降る度にあんな空き地に行ったり、自分を三ヶ月もはねつけ続けたりする必要性はない。
 そう考えると、茜の事がにわかに心配になってきた。「時間が永久ループしているから」というわけではないだろうが、茜はいつ見ても似たような格好をしている。少年が外気に適応して服装をなだらかに変えていったのに対し、茜はいつも似たような格好をしていた記憶がある。
 最後に会ったのは4週間前。年末もさし迫った頃なのに、コートを着ていなかった。その時はもう少し穏やかな雨だったが、随分な無茶だったのは間違いない。茜にその事を言っても、全く取り合わなかったが。
 走るべきなのか、と少年は思った。
 そういう不確かな直感に基づいて行動するのは少年のポリシーに反している。だが、あの茜の盲目的な頑固さを考えると、今日も似たような格好で来ている気がしてならない。
 ぎゅ…と傘の柄を強く握る。痺れてきた指が、じんじんとした嫌な感覚を返してくる。
 茜っ…?
 少年は自らの思考の中では茜に敬称をつける事はなかった。
「………」
 びちゃっ!
 唐突に生まれた彼の大きな一歩。水が跳ねてコットンパンツに飛ぶ。
 ザァァァァァァッ…
「………」
 不意に前から車のライトが近づいてくる。
 少年は、ゆっくりと道路の脇によけた。
 ザァァァァ…
 ワイパーをひっきりなしに動かしながら少年の横を通り過ぎていった。住宅地という事もあって、スピードは出ていない。タイヤの水跳ねを飛ばされる事はなかった。
「…はぁ」
 少年は言い聞かせるようにつぶやき、またゆるりとした歩みを始めた。
 たぶん、茜はいつものままの格好でいるのだろう。
 だが、どうせ少年が何を言っても帰りはしないのだ。また噛み合わない会話をして、そして、茜はこの天気の中に夜までいて風邪でも引く。いくらなんでも、気絶して凍死しましたなどという事はないだろう。
 少しくらい懲りればいいのだ。この季節にそうそう雨など降らない。次に会う頃までにはお互いすっかり忘れている事だろう。
 ぴちゃ。ぴちゃ…
 少年は落ち着いた足取りを見せた。
 寒空の下では脳もあまり動くものではない。一度思考を止めてしまうと、以降大した考えは浮かんでこなかった。指や頬に寒さを感じ、靴下やズボンの裾の辺りに段々と湿り気を感じながら、ただ歩みを進めていく。
 あの空き地まで、少年の家からはだいたい10分。今日のペースなら15分くらいかかったかもしれない。
 そこまでの道程では、誰に会うこともなかったように思えた。
「………」
 ザー…
 今更ながら、激しい雨音が耳に響く。
「…な…」
 一瞬の絶句と呆然のあと、意味を成さない声が漏れた。
「…なにやってんですかっ!?茜さんっ!」
 激しく叫ぶ。
 ぐちゅっ、ぐちゃっ、ぐちゃっ、ぐちゅ。
 少年は空き地を駆けた。
 ほとんど泥沼になってしまった所を駆けるのも気にはしない。
「…なに…やってんですか」
 無意識のうちに茜の手をつかんでいた。
「………」
 茜はこの上なく虚ろな目で少年の事を見据える。
「…死にますよ」
「………」
 茜の唇が、震えながら小さく動いた。言葉は紡ぎ出されない。
「茜さん!」
 少年は動揺したままの声で叫ぶ。
 いつものピンクの傘が、畳まれたまま彼女の足元に落ちていた。
 茜はきちんとした防寒具も着ず、頭の先から爪先まで、凍るような雨水でずぶぬれになっている。少年が無意識のうちにつかんでいた手も、常態とは思えないほどに冷たい。
 どう考えても、危険な状態だ。
「やめましょう…」
 そんな言葉が出てくる。
 どこかに連れて行かなくてはならない。
 少年は茜の手を引っ張った。茜はふらっと倒れそうになったが、辛うじてとどまり、少年の方に1,2歩歩く。
「歩けますか…?」
 返事はなかったが、少年が手を引くと茜は一歩ずつ進んだ。なんとかなるようだ。しかし、このままずっと歩かせても大丈夫なのかはわからない。
 少年は傘の出来るだけ内側に茜が来るようにして、手をきつく握りしめた。それで体温が移るという事もないのだろうが、そうせずにはいられない。
 泥だらけの空き地を抜け出すまで、とてつもなく長くかかったような気がした。
 何とか歩道まで出てきて一息ついたが、そこで悩む。確実に連れていけるのは少年の家だが、15分もの道のりを今の茜に歩かせて大丈夫なのだろうか。
「茜さん、どれくらい歩けそうですか…」
「………」
 放心状態らしい…
 少年に判断は託されてしまっている。
 賭けるしかなかった。少年は自分の家とは逆の方向に歩き始める。手で引っ張ると、茜も人形のような足取りでついてきた。
 すぐに県道がある。雨宿りしながら身体を温めるものを飲んでいれば、少しは時間を誤魔化せるだろう。その間にタクシーをつかまえられれば。雨の時にタクシーがどういう行動パターンを取るのか今ひとつ自信はなかったが、30分稼げれば何とかなる。
 その30分間、茜が耐えられれば、だが…。
 飲み物、カイロ、タオル…ひょっとすると、気つけの意味も合わせて、アルコールぐらいの方がいいかもしれない…
 自販機やコンビニで揃えられそうなものを片っ端から考えつつ、少年は雨の道をただただ急ぐ。今にも倒れそうな茜を不器用に支えながら。


 …バタン。
 タクシーのドアが閉まる。
「大丈夫ですか?茜さん」
 ブロロ…
 マンションの入り口までつけてもらったタクシーが去っていく。
 少年は茜を引っ張りながら、マンションの中に入っていった。タクシーの中では暖房を全快にしてもらっていたし、身体の状態が悪くなっているという事もないはずなのだが。
 オートロックの入り口をカギで開けて、中に入っていく。自分の部屋が一階だったことに、少年は深く感謝した。これ以上茜を引っ張り回すのは怖かったのだ。
 かち。がちゃ。
 102の部屋を開けて、少年は茜を中に導き入れた。
「だれもいませんから…」
 聞こえているのかすら疑わしくても、言わずにはいられない。
 入ったところから、しっかりした廊下が伸びている。一人暮らしのマンションにしては、随分と贅沢だ。
「シャワー、浴びてください。それから、何があったのか聞かせてくださいよ…」
 少年は茜に脱衣所のドアを示しながら言った。
 きちんと伝わっているのかどうか不安だったが、脱衣所のドアを開けてうながすと、茜はふらふらと脱衣所の中に入っていく。
 ぐしょぐしょになった茜の全身から落ちた水滴が、廊下を濡らした。
 パタン、とドアが閉められる。
 ひとりにしても大丈夫かという気持ちもあったが、茜は思ったよりは動けるようだった。実際のところは、傘を捨ててから大した時間は経っていなかったのだろう。むしろ、精神的なショックの方があるのかもしれない。
 しかし、何がショックなのだろうか?
 少年はだいぶ濡れてしまった靴下を脱ぎながら考えた。コットンパンツの裾がくるぶしに張り付いて、あまり心地よくない感触を返す。
 ひとまず自分の部屋に帰って、ズボンと靴下を履き替えた。それから、キッチンにあった雑巾を持って玄関に戻る。
 浴室からは、シャー…というくぐもった水音が聞こえてきていた。シャワーはきちんと浴びているようだ。
 ならば、これ以上悪くなる事はないだろう。身体の調子が戻るまで休ませてあげればいい。またタクシーを使えば普通に帰れるはずだ。
 一通り廊下の濡れた部分をふき取ると、やっと安心感が出てきた。そうすると、どっと疲労感が襲ってきた。
 こっちも休んでおこうかな。
 少年はキッチンに向かって、ヤカンを火にかけた。しかし、まだやるべき事があるのに気づき、自分の部屋に行く。
 そして、シャツ・トレーナー・ジーンズなどを適当に見繕う。下着だけは仕方ないだろう。乾燥機を使えばなんとか乾くだろうから、今は我慢してもらうしかない。
 そのセットを持って、少年は脱衣所のドアを開ける。
 想像通り、床はだいぶ水で濡れてしまっていた。水を吸った服は全部洗濯カゴの中に放られていたが、身体から垂れた水だけでバスマットもだいぶ湿っている。
 少年は近くにあった雑巾で軽く床の水を拭いた。そして、その雑巾とバスマットを洗濯機の中に放り込む。持ってきた服は、洗濯機のフタの上に置いておいた。
 濡れた服から染みだした水が、洗濯カゴの隙間から少し出てきているようだったが、とりあえず手をつけるわけにもいかない。放っておく事にした。
 その時、ピィィ…とヤカンが沸いた音がする。
 少年はキッチンに戻ってそれを止め、ポットに紅茶葉を入れてお湯を注いで置いた。それから、物置代わりに使っている3畳の部屋から新しいバスマットを取り出し、脱衣所に持って行く。この家は1SLDKというややこしい形状なのだ。
 新しいバスマットを敷いた瞬間、浴室の水音が止まる。
「とと…」
 少年は慌てて脱衣所を飛び出し、ドアを閉めた。ほぼ同時に、浴室のドアが開くがちゃりという音がする。
 多少足音をひそめながらキッチンに戻り、二つのティーカップに紅茶を注いでおく。普段は使いもしない角砂糖を準備して、–––そもそもいつどこで買ったのかすら覚えていないが–––リビングのテーブルの上に運ぶ。
 それから思い出したように、普段は普通のスプーンと区別していないティースプーンを二本、キッチンの引き出しから探し出す。
 がちゃ。
 その時、脱衣所のドアが開く音がした。茜が姿を現す。
 少年はティースプーンを持ったまま、その姿を見ていた。三つ編みをほどいたパンツルックの茜は、普段とは全く違う人間のように見えてしまう。
 ただ、瞳の色はいつもと同じものに戻っていた。
「…あ」
 茜が廊下を歩き始めてから、少年は初めて声を上げる。
「大丈夫、ですか?」
「…ええ」
 なんだか、とても久しぶりに聞いた声のような気がした。ほとんど1ヶ月ブランクがあったという事は確かなのだが、それ以上に聞いていなかったような気がしてしまう。
「びっくりしましたよ」
 ティースプーンを持ってテーブルに移動しながら、少年は言った。
「ほんとに、あのままずっとあそこにいたら凍死してもおかしくないと思いますよ」
「…そうかもしれません」
「自殺願望ってわけじゃないでしょ?」
 言ってしまってから、肯定されるのではないかという不安が生まれる。
「たぶん、違います」
「…そうですか」
 少しだけ安心した。
「座ってください」
 4人掛けの丸テーブルに座りながら、茜に向かいの席を勧める。これくらいのアドバンテージは取らせてもらってもバチは当たらない、と少年は思っていた。
 茜は素直に椅子にかける。
「疲れてる時ですから、砂糖入れといた方がいいかもしれませんよ」
 青い陶器の蓋つき鉢の中から、大きなピンセットのようなもので一個角砂糖をつまみだす。とりあえず角砂糖を入れるための容器を買ったら、きちんと角砂糖を取るためのピンセットまでついてきたのだ。角砂糖自体の需要など、ほとんどないだろうに。
 かちゃ。
 自分の紅茶に砂糖を入れて、角砂糖入れにピンセットを戻す。
「ほんとは、途中で何か飲めるとよかったんですけど」
 何の果報か、少年と茜が県道に出た瞬間に空車のタクシーがやってきたのだ。無論、少年達の方の車線に。おかげで身体は冷えなかったが、コーヒーか何かを買うという事もできなかった。
 少年はティースプーンでかちゃかちゃと砂糖を溶かしながら、茜の動向を見守る。
 かちゃ…
 茜がピンセットを取った。
 ちゃぷ。
 ひとつ、角砂糖が紅茶の中に入れられる。
 ちゃぷ。
 ふたつ。
 ちゃぷ。
 みっつ…
「ちょ、ちょっと茜さん?」
 ちゃぷ。
 よっつ…
「あの」
 ちゃぷ。
 いつつ。
「………」
 かちゃかちゃ。
 茜は何事もなかったかのようにピンセットを角砂糖入れに戻し、紅茶をかき回していた。
 マグカップではない、ティーカップだ。もちろんマグカップでも入れすぎなのは間違いないが…。しかも、もともと6,7分目しか入っていなかった。だからこそ5つも角砂糖を入れたのにこぼれなかったわけだ。
 茜のティーカップの中にあるのは、紅茶風味の糖液と言った方がいいように思えるのだが…。
 かち。
 茜がティースプーンをソーサーに置く。
「うわ…」
 ごく普通に、茜はそれを口に運んだ。
 こく。こく。
 まるで当たり前の紅茶を飲んでいるような飲み方。
「あ、茜さん」
「はい?」
「いくら疲れているって言っても…入れすぎな気がするんですけど」
「大丈夫です」
「まずくないですか?」
「いえ」
「そ…そうですか」
 少年も自分の紅茶を口に含む。なんだか砂糖が全く入っていないような感じがした。
 コホン。
 ひとつ咳払いをしてから、
「それで…一体、なんであんな事をしてたんですか」
 少年は切り出す。
「…ご迷惑をおかけしました」
「いや、それはいいんですけど、なんであんな事をしてたのかって」
「わかりません」
「…あれも、いつもみたいに、理由がわからずにやったことなんですか?」
「はい」
「なんだかわからない理由で死にかけちゃ、たまりませんよ…」
 少年はティースプーンをくるくると回しながらため息をついた。
 出てくるときからつけっぱなしにしていた暖房だけが、ブゥン…と小さな機械音を立てている。
 茜が、また一口糖液を飲んだ。
「…ただ」
「はい」
「ただ、また、どこかで見たような気がしたんです」
「え?」
「最初にあなたに会った時みたいに、どこかで今日と同じような光景を見たような気がしたんです」
「…そう言えば、そう言ってましたね」
 少年はそれに対する追及を三ヶ月の間すっかり忘れていたのだ。
「なんで、そんな風に思うのかはわかりませんけど」
「そういう記憶、面白いですけど、身体に無理が来ない範囲でやってくださいよ」
 茜の身体がとりあえずは何ともないとわかると、疲労感の方が先に立ち始めた。少年は、仕方ないなといった口調で言う。
「………」
「…?」
 不意に茜の表情が険しくなった。
「えっと」
「………」
 茜は普段からあまり友好的な表情はしていなかったが、怒りと思われる表情を見せることは珍しい。少年はたじろぐ。
「あ、あの、僕、なんか変な事言いました?」
 誤魔化し笑いを浮かべながら言った。
「自分で自由にコントロールできるなら、こんな事はしません」
「あ…」
「別に、私も楽しくてあの空き地にいるわけではないです」
「…はい」
 縮こまった声で小さく返す。
「………」
 茜は憂鬱そうな表情で黙りこくってしまった。
「でも、僕なんかは茜さんみたいのにもあこがれますけどね」
 それでも切り返す。
「………」
「なんだかわからない衝動のようなものがあって、それを表現できずに苦しむっていうのにも」
「………」
「僕は詩を書きますけど、茜さんの事はどうしても書けないんです」
「………」
 あまり期待はしていなかったものの、茜は全く返事を返さなかった。表情も憂鬱そうな、怒っているような、少なくとも良い感情ではない。
 しかし、これくらいは、今回の件の、駄賃として…
 がたっ。
「…茜さん?」
 突然茜が立ち上がる。本気で怒らせただろうか?
「もう少し休んでから…」
「…あなたは」
 さっきの怒ったような声とも違う、なんだかひどく冷たい声だ。
「あなたは、わからないものに晒された事がないから、そんな事を言うんです」
「…それは」
「なんでも、自分の思うように秩序づけたいんでしょう?」
「まぁ、そういう風にも…」
「あなたは、支配することが大好きな人間です」
「…そう見えますか?」
 茜はテーブルを回って、段々と少年の方に近づいてきていた。
「私は、支配されてきた人間です」
「…特に、そういう風には見えませんけど…」
「あなたは理解しないでしょうね」
「普通の人間じゃ、理解できないと思いますけど…」
 どんどんと迫ってくる茜。さすがに威圧感が生まれてくる。
「だから、憎いんです」
「そんな…」
 不条理な憎悪の念だった。
「無知の力をふるうあなたが、憎いです」
「わかりませんよっ…」
 どうすればいいのか分からない。茜の目は据わっていた。
 ぴとっ、と茜の手が少年の頬に当てられる。
「ひ…」
 シャワー上がりだから温かい手であるはずなのに、少年は冷え切った手に触られたような声を上げてしまった。
 そして、すっと茜の顔が下がってくる。少年の顔に迫ってくる。
「あ…」
 少年の目には、綺麗なピンク色の茜の唇しか見えなかった。逃れられない。
 ぷちゅ…
 そして、茜は少年の唇に口づけた。
 そのまま唇を割り開いて、舌が侵入してくる。ひどく甘いディープキスだ。
 糖分の染み通るような感覚と相まって、少年はまるで唇の中から溶かされているような感覚に襲われた。茜のキスは決して技巧的ではなかったし、単に舌を差し入れられたに等しいものなのだが、少年は頭が真っ白になってしまう。
「……」
 ごく短いキスだ。しかし、少年にとっては時間の全てを奪われたようなキスだった。
 きゅ…
「…!?」
 茜の右手が、突然少年の喉に当てられた。
 片手で喉を締めているような状態だ。無論力は入れられていない。単に、手を当てているだけだ。しかし、少年は恐ろしいほどの圧迫感と窒息感を感じた。
 はっ…はぁっ…
 茜が手を離すと、少年は荒く息をつく。
「…あなたの部屋は、あっちですね」
 こく。
 うなずくしかなかった。
 歩みだした茜に、少年は黙ってついていった。さっき首に当てられた茜の手の感触が、首輪のように残ってしまっている。


 茜はノーブラ、しかも下半身はジーンズだけという状態だったわけだが、そのエロティシズムを楽しむ余裕など少年にはなかった。脱いでいる間にも、縮こまっている性器を隠しながら–––少年の方が、先に服を脱がされた–––ベッドの上で震えていただけだ。
 未だ雨の降りしきる戸外、閉められたカーテン。部屋は5割方の闇に占められている。
 そこに立つ全裸の茜は、どこか神聖なまでに怖かった。
 ゆるりっ、とベッドに上がってきた瞬間、少年はぴくりと身体を震わせてしまう。
 少年は、全裸の茜にのしかかられている。しかし一向に性器は勃起していなかった。言い様のない不安感と威圧感に捕らえられてしまっているのだ。
 茜は少しずつ身を乗り出して、少年の薄い胸に顔を近づける。
 ちろ…
「……!」
 少年は思わず目を閉じた。茜の舌に、胸の先端を転がされたのだ。
 むずがゆいような感覚だったが、執拗に舐められている間に、段々とそれが性感のように思えてきてしまう。ただし、男としての性感とは軌を一にしない感覚だった。不安感にも似た、切なすぎる快感だ。
 その間、茜は指を自らの秘部に這わせ、ゆるゆるといじり立てていた。少年に対する技巧はそれほど慣れたものには見えないが、自らを責め立てる技巧は十二分に習熟しているように見える。次第にぬちぬちとした水音が漏れ始めた。
 もちろん、少年は茜のそんな行為に気づいていなかったし、茜のテクニックがどうかなど判断すべくもなかったのだが。
 自分の秘部から液体が滴りそうになるほどになると、茜は胸への責め立てをやめて、もっと下の方に身体をずらす。そこにある性器は未だに勃起していなかった。
「………」
 茜はふにゃふにゃとした幹の部分を細い指で握りしめる。
「ん…!」
 少年は身体を震わせる。
 くいくいと機械的な刺激を与えていくと、段々少年のペニスは力を得て、腹の方に向けて反り立っていった。
 じゅるっ。
「…!…!」
 茜はおもむろに少年のペニスの先端を舐め上げる。不意の峻烈な性戯に、少年は激しく悶え上がってしまった。
 ただし、それは一回だけだった。
 それ以上にフェラチオを続けようとせず、茜は少年の腰の上にまたがっていく。
「あ…」
 腹の上に手が当てられる感触に、少年が目を開けた。
「………」
 茜は大きく脚を開いてまたがったまま、少年を見ている。
 一方の少年は、今まさに自分を飲み込もうとしている女性器に目を釘づけられていた。暗くてほとんど構造はわからないが、ヘアの間にぱっくりと割れた部分があり、その中が赤みを帯びている事だけはわかる。
 茜は、少年のペニスを指でつかんでぐいっと直立に持ち上げた。
 乱暴に扱われても、エレクトしているペニスは快感しか返してこない。少年は固唾を飲んで行為の進行を見守った。
 狙いをつけて、茜がゆっくりと腰を落としていく。
 ぬぷ…
 少年のペニスの先に、熱くぬるぬるとした感触が生まれた。その感触は、ペニスを包み込むようにしてどんどん広がっていく。ずぶずぶと、ペニスの根元、睾丸の辺りまでが熱い粘膜に覆われていく。
 童貞を奪われたという事を認識するまでにだいぶ時間がかかった。あまりにスムーズな挿入で、どこがその瞬間かなどはわからなかったのだ。
 ぬぢゅっ。
 茜が腰を持ち上げる。熱くぬめった感触が強く締め付ける。未知の感覚が少年を襲っていく。
 ぬぢゅ、ぬぢゅ、ぬぢゅ…
 すぐに茜はリズミカルな動きに切り替えた。長い髪が激しく揺れる。茜は前の方に下がってきて邪魔になる髪の毛を、幾度もかき上げた。
 あまり動き慣れてはいないようだったが、むさぼるような激しい動きは少年のペニスを激しく刺激したし、何よりたっぷりとした愛液と強い締め付けは感じられる快楽を数倍にしていた。
 少年は自らも動こうなどという考えを起こせず、ただぼうっとして茜の行為を受け止めていた。ただ気持ちいい。ほのかに感じられる茜の愛液の匂いも気持ちいい。
 茜は腰を振りながら自らのクリトリスを刺激する事で、十分に快楽を得ることが出来ているようだった。しかし、ごんごんと激しくペニスの先端をヴァギナの奥底にぶつけるような動き方を見ると、必ずしも性感帯がクリトリスに限られているわけではないらしい。
 少年のペニスに、段々快感が集中していく。限界が近づいてくる。
「あ…茜さん、ぼく、もう」
 茜は困ったような顔をした。
「ご、ごめんなさい」
 謝る。
 ずるっ。
 茜は、動きを止めてペニスをヴァギナから引き抜いた。濁った液体がたらっと糸を引いて、少年の太股に垂れる。
 そして茜は少年の太股にまたがり、ぎごちなく少年のペニスに指を添えた。上下にぐりぐりとしごき立てる。逆の手は、自らのクリトリスに当てられている。
 さきほどに比べれば不十分な刺激だったが、それでも限界を迎えかけていた少年はひとたまりもなかった。
「あ、茜さん」
 ごめんなさい、と言う前に、射精していた。
 ぴゅ、ぴゅっ…と白濁の液が飛び散る。
 茜はその瞬間指を離していた。その熱い液体は少年自身の腹部にかかっていく。
 最高の快感と惨めな敗北感を感じながら、少年は呆けていた。
 一方の茜は、クリトリスを刺激しながらヴァギナに突き刺した指を動かし、最後のとどめを自ら刺そうとしている。
 ぐちゅ、ぐちゅっという激しい水音が立つ。茜は一心不乱に指を動かしていたが、ある瞬間指が止まった。
 はぁはぁと息を荒くしながら、茜は瞳を閉じる。
 絶頂に達したらしい。
 それについて推測しかできない自分は、絶頂に達した事をはっきり目にわかる形で示してしまっている。なんだか恥ずかしかった。


「………」
「………」
 後始末をして、お互いシャワーに入り、洗濯物を洗濯機に入れ、そしてテーブルで再び向き合う。
「私、処女ではないですけど」
 茜は唐突に口を開いた。
「?」
「いつ処女を失ったかもわからないんです」
「…それって」
「私には、わかりません」
 茜はうつむいた。
「もうひとつ、わからないのは、いつからこんな身体になったのか、ということです…」
「………」
 安易な想像が少年の頭に浮かんだが、それを口に出す事はできなかった。喉につけられた幻想の首輪は、未だに生きている。
「…洗濯物が乾いたら、帰ります」
「あの、茜さん」
「はい」
「クリスマス、ちょうど一ヶ月くらいの前ですよね」
「…ええ」
「あのとき、茜さん、やっぱり夜まで空き地に公園にいたんですか?」
「ええ」
「だったら、その時の代わりのつもりで、クリスマスパーティー、やりませんか?ふたりで」
 なんでこんな提案をしたのかはわからない。ただ、茜につけられた首輪を引きちぎって生まれた言葉ではなく、別のところから出てきた言葉だ。
 たぶんそうだ、と少年は思った。
「…嫌です」
「そうですか」
 そうですよね、と少年は思う。
「…詩子がいませんから」
「しいこ?」
「私の幼なじみです」
「へぇ」
「いつも、クリスマスパーティーを一緒にやっていたんです」
「じゃあ、その詩子さんも呼んだらいいですか」
「そうですね」
 どこかアンニュイな微笑みを浮かべつつも、茜は肯定してくれる。
「色々と迷惑もかけましたし、私がケーキを作ります」
「作れるんですか?」
「ええ」
「…嬉しいですね」
 少年は、どこか、ふわりとした気分になっていた。
「ところで、そのしいこさんですけど」
「はい」
「ポエムの詩に子なんですか?」
「ええ」
 随分と皮肉な話ではある。
「どんな人なんですか」
「面白い子です。突拍子もない事をすることも多いですけど」
「そうですか」
 どうやら、少年は持っている詩集とこれまでのノートブックを全て破棄した方がいいようだった。
 そして茜は、どこか煮え切らないような、それでも少しすっきりしたような、微妙な移ろいのある表情を浮かべていた。