栞(長編) その3


 夜になって消化剤をもう一服飲んだが、そろそろ日が変わろうというのに祐一の胃腸はあまり調子を戻していなかった。
 そんなわけで、祐一は延々とベッドの上でごろごろしている。
 もちろん、何をすることなしにそうしていれば、色々な思考が浮かんでくるのは当たり前だ。その対象もだいたい決まってくる。
 名雪のくれた目覚まし時計は無音で23:56を刻み続けていた。もうすぐ今日が終わる。栞との日々はあと4日間。
 その事実がどうも上手く飲み込めない。4日間、96時間。その数字だけが抽象的に一人歩きを始めていて、栞と祐一の関係と関連したものだという事が把握できないのだ。
 一方で、数時間前にこのベッドに栞が何も纏(まと)わず横たわっていたという事実、非常に肉体的な事実もどこか嘘っぽく感じられた。栞が顔をしかめたり、声を殺して喘いだり、愛液をあふれさせていたという事実。この上なく人間的なリアリティーが、変な空虚さを持って感じられた。
 どうしちゃったんだろうな…
 数十回目になる自問。
 その行き着くところは、結局、祐一が栞との想い出を十分な形で築けているのかどうかわからないという不安だった。自分が実(じつ)のある事を出来ていないという自覚があるから、虚無感を感じるのだ。
 しかしすぐに、栞を「普通の女の子」として扱うという「大前提」が、「恣意的な想い出づくりなど不要だ」と反論してくる。
 寂しかった。
 深く愛しあっている恋人がいるというのに、祐一はひどい孤独感を感じた。栞のことを考えれば考えるほどに彼女が客観的なものに思えてきてしまう。自分から一歩離れた対象のように感じられてしまう。
 つまり、孤独。
 もちろん、助けを差し伸べる人間が誰もいない事が孤独感に拍車をかけているのも間違いないだろう。名雪も秋子も、気を利かせているのか偶然か、部屋にやってくる事はなかった。名雪の方は巨大な弁当という事情を把握していないだろうから、突然夕飯を食べないと言った祐一に心配を募らせているかもしれない。
 ごろん。
 祐一は大きく寝返りを打った。腹の中で、食べたものが動く不快な感覚がある。それでも寝返りを打たずにはいられなかった。
 恐らく、栞の近くにいる間は、このような憂鬱な状態になる事などあり得ないだろう。祐一は、ある意味で自分が栞に依存しつつあるという事実に驚いていた。
 かと言って、電話を掛けるような事もできない。掛けるだけの勇気も無かったし–––香里が出たらどうすればいいのか?–––そもそも栞の電話番号は知らなかった。
 今度会ったときに、聞くべきなのだろうか?
 答えは出なかった。
 悶々としたまま、1月26日が終わりを告げる。


「ごちそうさま」
「祐一、早すぎるよ…」
「祐一さん、もう一枚どうですか?」
「そうですね。お願いします」
 祐一はカラになった皿を秋子に渡した。名雪はまだイチゴジャムを一枚目のトーストに塗りたくっているところだ。
「昨日、お腹壊してたんじゃないの?」
「いや、起きたらすっきり治っていた」
「気をつけなきゃダメだよ。お腹冷やしたの?」
「あー、ま、そんな所だ」
 祐一はつかえを取ろうとしているかのように、コーヒーを大きく一口飲む。どうやら、秋子が名雪に適当な説明をしておいてくれたらしい。
「薬をちょっと飲んだらすぐ治ったから大丈夫だ。元々身体は丈夫だし」
「でも、この辺りはすごく寒いんだから、下手するとすごい病気になっちゃうかもよ」
「すごい病気ったってたかが知れてるだろ。1日寝てりゃ治る。昨日のなんか半日で治ったんだから」
「でも、気を付けなきゃダメだよ」
「わかった。ていうか、早く食え」
「あ、うん」
 名雪は段々と冷めつつあるイチゴジャムトーストを慌ててかじった。
「うー、焼きたてじゃなくなっちゃったよ」
 悲しそうな顔をする。
「バターじゃあるまいし、イチゴジャムなら少しくらい冷めてもいいだろ」
「だけど、やっぱり焼きたての方がおいしいよ」
 言いつつも、かりっときつね色のパンをかじる。
「じゃあ、もう一回焼いてもらったらどうだ?」
「バリバリになっちゃうよ」
「クリスピーな歯ごたえが楽しめるぞ」
「単に焦げて苦くなっちゃうだけだよ」
「苦みと甘みがうまくマッチするかもしれないぞ」
「しないよ…あ」
 名雪は何かに気づいたかのようにまたパンをかじる。
「どんどん冷めちゃう…」
「早く食べろ」
「祐一が変な事言ったんだよ」
「いちいちつき合わなくてもいいだろ」
「なんだか責任の場所がおかしいよ」
「それは名雪の思いこみだ」
 などなどとして、
「あーっ、もうこんな時間」
「もう食べるのは諦めろ」
「あと少しだよ…」
「名雪、5分の4食べるのにどれだけ時間を食ったと思ってるんだ」
「祐一のせいだよ」
「違うぞ」


「ぐはぁっ…」
「祐一、大丈夫?」
 ほとんどの生徒が慌てて教室まで走ろうとしている昇降口。キーンコーンというチャイムは、最後の部分のメロディを奏でていた。そして祐一は、今度こそはバカなやり取りをせずに学校に行こうと誓うことになる。
 ただし、栞の事が気になり始めてから名雪との朝の掛け合いが増えてきたのは、祐一自身も気づいていない事実だった。
 そんな祐一に、「助けを差し伸べる人間がいない」などと言う資格はないのかもしれない。救いがあるのは、祐一のことを助けているなどと考えている人間が誰一人としていないという事だった。
「あれ?」
 祐一は顔だけを上げて「なんだ?」という意思を示す。
「香里じゃない?あれ」
「………」
 遅刻かどうかという瀬戸際に、ゆるりとしたペースで階段を上がり始めている女生徒。確かに香里だった。昨日とほとんど同じ状況で二人の前に現れた事になる。
「…どうする?祐一…」
 何も言葉を返さない祐一に、名雪は言いにくそうな声で問うた。
 昨日は、「香里の問題」と言ってのけた祐一だが…。
 体力と気力の限界か、はたまた別の原因か、祐一は何の返事もしない。
「あのね、祐一…私、昨日、香里にどっか行こうって誘ったんだけど…」
 名雪が切り出す。祐一はかすかにうなずいた。
 チャイムが余韻を残して消えていく。
「そのとき…」
 少しずつ歩き始めながら名雪は言った。
「香里…なんにも返事してくれなくて」
 名雪は真下を向くほどに俯(うつむ)いている。
「私のこと、無視して…」
 ほとんど震えた声だった。
 ………………
 そして沈黙が下りる。
 二人はそれきり何の言葉も交わさないまま、廊下を進み、階段をのぼった。
「ねぇ祐一」
 階段をのぼりきった所で、短く名雪が声を放つ。
「私、もう………無理だよ」
 明確な弱々しさが生まれていた。
 この件で、はっきり弱音と取れる言葉を名雪が吐いたのは初めてのことだ。と言っても、香里と名雪が昨日交わしたというやり取りだけが名雪を動揺させたわけではないだろう。深い動揺はずっと前から始まっていたのだ。それが、香里の姿を再び目にしたことで抑えきれなくなったに過ぎない。
 それは名雪の何気ない普段の姿が、どこかしら仮面を帯びたものだったという告白に等しいのだ。ぴしりと祐一の心を打つ。
「香里がどんどん変わっていっちゃうよ…」
 しかし、二人の視線は平行なままだった。
 教室まで、あと10m。
「祐一、あの子、誰なの?」
 思い切ったように名雪が言う。
 名雪は、栞の顔を知っているのだ。中庭に立っている所を校舎の中から見かけたのか、あるいは祐一と一緒にいる所を見かけたか。
「あの子、香里とどう関係があるの?」
 気づいていないのだろうか。
 予測は出来ていても、自信がないのか。
 それとも、祐一の態度を見極めようとしているのだろうか。
「教えて。祐一」
 二人は教室のドアのところまで来ていた。
 先行していた祐一が、振り返って名雪と相対する。
「祐一…」
 予想はしていた事だが、名雪の瞳には潤みが見て取れた。名雪がわずかなりとも涙を流すなど、祐一の記憶の中には存在しない経験だった。
「祐一、お願い」
 名雪がもう一歩祐一に近づく。
 ……がら…
「………」
「すいません、遅れました」
 祐一はホームルーム中のドアを開けていた。
「おう。さっさと席に座れ」
 担任の石橋、普段通りの声。
 名雪がどんな目で祐一を見ているのかは、祐一には見えなかった。
 寝ている人間、小声で無駄話をしている人間、石橋の話を聞いている人間。祐一と名雪が入ってくる、その苦しげな入室に気づくものなどいない。
 香里は–––窓の外を見ているのだ。


「祐一さん」
「なんだ?」
「まだ、お腹の調子悪いんですか?」
「なんでだ?」
「顔色が良くないみたいですから」
 今日も校門の前で、祐一と栞は出会った。
「いや、今は大丈夫だけどな。昨日の夜はもたれて死ぬかと思ったぞ」
 歩いてきた栞と並んで歩き始めながら、祐一は言う。
 今日も天気はからりと晴れていた。
「大げさです」
「そんな事ないと思うけどな…」
「せっかく作ってきてあげたのに、祐一さん不平ばっかりです」
「…栞、量を減らそうという発想はないのか?」
 祐一は本気でげんなりした顔になる。
「いろいろ作ってると、楽しくてどんどん量が増えちゃうんです」
 罪悪感の無い顔だった。
「闇雲に作らないで、もっと計画的にオードブルから始めればいいだろ」
「フランス料理じゃないです」
「とにかく、俺の腹が八分目に収まる量を計算してくれ」
「じゃあ、昨日の量の80%ぶんを作ってきます」
「…あのな」
「冗談です」
 嬉しそうな顔だった。
「なぁ栞、本当は確信犯でやってないか?」
「祐一さんの思いこみです」
「とてもそうとは思えないんだが」
「でも、またお弁当は作ってきますね」
 どこが「でも」なのか分からないが、栞はあっさりと話題のペースを変えてしまった。
「…頼むから量だけは加減してくれよ。加減って言っても量を加えるんじゃないぞ」
「???」
 栞は目をしばたたかせる。
「だからさ、『加減』って『加えると減らす』って書くだろ」
「あ…気づきませんでした」
 ぽん、と手を叩く。
「珍しいな…揚げ足取り名人の栞が」
「名人じゃないです、祐一さんがいつも変なことばっかり言うからです」
「わざわざツッコまなくなっていいだろ」
「そういうわけにはいきません」
「変わった義務感だな…」
「放っておいてください」
 栞はわざわざ頬を膨らませて抗議した。
 祐一は笑ったものか、意味を深く読むべきか、困惑する。
「…でだ。今日はどうするんだ?」
「そうですね…」
 とりあえず会話を本題に移しておいた。
「おとといみたいに適当な行動してると、行く場所が無いって事になりかねないからな」
「でも、やっぱり商店街には行きませんか?」
「そうか?俺は別にいいけど…なんでだ?」
「色々なものがありますから、見ているだけで面白いです。今日はすぐにアイスを買ったりしないで、出来るだけたくさんお店を回ってみたいです」
「俺もあの商店街詳しくは知らないからな。ひょっとすると、栞の方が詳しいくらいかもしれないぞ」
「たぶん、同じくらいだと思いますよ」
「そっか。じゃ、今日はあの商店街をかっちり探索してみるか」
「そうしましょう」
 栞は好奇心のようなもので目を輝かせた。
「言っとくけどな、おごりの金額には限度があるぞ」
「そんな事言う人、嫌いです」
「…鬼か、栞」
「たとえ本当でも、女の子の前で宣言する台詞じゃないです」
「んな事言われても…」
 金は栞の誕生日プレゼントに蓄えておくべきだった。冬休みに引っ越しなどしたせいで、今年はお年玉の回収率が悪かったのだ。1/7に越してきた居候にお年玉をくれたあたり、秋子はさすがだったが。
 それでも数万にはなったが、コートの新調で全てが吹っ飛んだ。仕方ない。その時は栞との出会いなど予期していなかったのだから…。
「ちょっぴりさもしい思いをしながら、お店めぐりをしなきゃいけなくなるじゃないですか…」
「なんか『さもしい』ってババ臭い表現だな」
「偏見ですっ」
「金に意地汚いのは栞のような…」
「祐一さんっ!本気で怒りますよ」
「よしよし」
「わ…」
 祐一は不意に栞に近寄って頭を撫でてやった。
 栞は慌てふためきながら祐一から距離を取る。周りには、まだ下校中の学生の流れが続いているのだ。
「こ、こんなところでされたら恥ずかしいです」
「意外と恥ずかしがり屋だな」
 一昨日は、周りに学生がいる中で大声を上げていたような気がする。
「当たり前ですっ」
「相変わらずさらさらだけどな」
「とってつけたように褒めないでください」
「手入れしてるのか?」
 それでも祐一は続けた。
「…そんなには」
 栞は応える。
「美容院とか、結構行くのか?」
「まぁまぁです…伸ばすと癖っ毛が目立つようになっちゃいますから」
「そうか」
 改めて、香里との血のつながりを感じさせてしまう事実でもあった。
「昔、伸ばしていたこともあったんですけど」
 祐一の思いを読みとったかのように、栞は続ける。
「最近はずっとショートカットです」
「その方が栞には似合ってるぞ」
「…そうですか」
 色々な思いを交錯させるかのように、栞がわずかに視線を下を向ける。
「子供っぽくて」
「なんでいちいち最後にオチをつけるんですか!」
 そんな思いは一気に霧散した。
「いや、栞と話をしているとどうもな」
「別に私は祐一さんと漫才をしたくて話しているんじゃありません」
「栞のツッコミとボケは結構いい味出してると思うけどなぁ」
「知りませんっ」
「祐一くんっ」
 さっ。
「きゃ…」
 どたっ。
 ………
 一瞬のうちに起こった出来事。
「あ…あれ?」
「おい、どうでもいいから、早くどいてやれ」
 素晴らしい反射神経で右へと回避した祐一が、声をかける。
 倒れた栞の上にのしかかっているあゆに。
「あ、あゆさん…ちょっと、やっぱり、重いです」
「ごっごめん栞ちゃんっ!」
「謝る前にどけっ!」
「うぐぅ…」
「『うぐぅ』を言う前にどけっ!」
 それでも「うぐぅ」と言いつつあゆは立ち上がった。
「うぐぅ…なんで後ろから飛びかかったのに、祐一くんよけられるの?」
「その前に奇襲をしかけるという発想を変えろ」
「だって、普通にやっても祐一君逃げちゃうんだもん」
「バカかっ」
「うぐぅ、ボクばかじゃないもんっ!」
 頬を膨らませる仕草はどこか栞に似ていた。
「怒るような話じゃないだろ」
「いきなりばかなんて言われたら誰でも怒るよっ!」
「…えっと」
 ぱん、ぱんとスカートをはたいていた栞がおずおずと会話に入ってくる。
「それで、あゆさんで合ってましたよね?」
「…あ」
 あゆが頬を染めて、ぺこぺこと栞に謝る。
「ごめんっ栞ちゃん!祐一くんのせいで」
「こらっあゆ!」
「祐一くんがよけたせいで栞ちゃんにぶつかったんだよっ」
「飛びかかってきた奴に一番責任があるだろっ」
「男の子は女の子のアタックを受け止めてくれるもんだよっ」
「減らず口を…」
「減らず口じゃないよっ!」
 うー…と二人は視線を交わす。バチバチと火花が散るという感じではなかったが。どちらかと言えば、小動物のじゃれ合いに等しい。
「あのー」
 またおずおずと二人の間に入ってくる。
「…あ」
 ぺこぺこと謝る。
「それで栞ちゃん、けがとかしなかった?」
「ええ、それは大丈夫です」
「よかった。祐一くんのせいでけがしなくて」
 ぽかっ。
「うぐぅ〜」
「いー加減にしろっ」
「うぐぅ、半分はほんとだもんっ」
 頭を押さえて涙目になりながら抗議する。
「自分を正当化しすぎだっ」
「それは祐一くんも同じだもん」
 上目遣いでじーーっと見る。
「俺は正当防衛…じゃない、単に危険を回避しただけだろ」
「敵前逃亡とも言えますね」
「…栞、変なところで加担しないでくれ」
「栞ちゃん、やっぱりわかってるよ」
 うんうんとうなずく。
「あゆ、もっかい叩かれたいか」
「嫌だよっ!」
 あゆは栞の後ろに逃げ込んだ。
「ったく…」
「それで、祐一くんと栞ちゃんはなんで一緒にいるの?」
 栞の肩に手を乗せて、顔を出しながら問う。
「それはな…」
 祐一が栞をちらりとうかがった。
 栞は祐一の顔と、それから真横にあるあゆの顔を見た。
 あゆはにこにこしながら至近距離で栞の事を見ている。
「俺と栞は、恋人同士だからな」
「え?そうだったの?」
「まぁ、過去形がどこまでかはわからないけどな。今恋人同士なのは間違いない」
 あゆは栞の肩に手を乗せたまま、それなりに驚いた目で祐一の事を見ていた。
「ボク、全然気づかなかったよ」
「あゆは鈍いからな」
「ふつう、誰も気づかないよっ」
「なんでそうなる」
「なんか、お兄ちゃんと仲のいい妹って感じに見えるもん」
「えらい偏見だな…」
「あの、あゆさん…耳の近くで大きな声だと…」
「あ…栞ちゃん、ごめんっ」
 あゆは栞から手を離した。
「んで、あゆはなんでここにいるんだ?」
「もちろん、学校帰りだよ。今日は平日なんだから」
「どこの学校なんですか?」
 祐一の横に戻りながら、栞が問う。
「うん、この街のはずれの方にあるんだよ」
「そうですか…ちょっと、よくわからないです」
「小さな学校だからね」
「学校は、楽しいですよね」
「うん、楽しいねっ」
 屈託のない会話だった。詳しい話には一切立ち入らない。
「それで、あゆはこれからどうするんだ?」
「うん。…うちに、帰るよ」
「そうか。俺達は商店街に行こうと思ってるんだ」
「恋人らしいね」
「ああ。あゆが家に帰るんなら、突然攻撃を受ける心配もないし、のんびりしてくるわ」
「だから、攻撃じゃないよっ」
「食い逃げせずに家に帰れよ」
 祐一と栞は、ゆるい坂道をゆっくりとのぼり始めた。
「うぐぅ、そんな事しないもんっ!」
 言いながら、あゆは坂道を駆け下り始める。
「じゃあ、あゆさん、また」
「じゃあねっ、栞ちゃん〜」
 ぶんぶんと手を振っていた。
「こけるなよっ」
「こけないもんっ!」
 大声で言いながら、あゆの姿は道の彼方に消えていく。


 結局、この日の出費は0円だった。服屋を中心として回った結果、適当な値段と質を兼ね揃えた物がなかったのだ。
 明日もどこかを回ろうという約束をして…人気のない路地で、小さなキスをした。軽く胸をいたずらした祐一に、栞はぷんぷんと怒りながら顔を赤くしていた。
「ただいま〜」
「おかえり…」
 祐一は一瞬立ちつくす。
 間の悪い事に、リビングから名雪が出てきたところだったのだ。
「祐一」
 責めるような目、同時にひどく悲しそうな目。
 祐一は返す言葉を持っていなかった。
 4限の授業が終わったときも名雪は寝ていたし、ホームルームが終わった瞬間祐一は栞との待ち合わせ場所にダッシュした。だから、今日は朝以来名雪と何の会話も交わしていない。そもそも4限の時に名雪が寝ていた事自体、名雪の配慮であった可能性もあるのだが。
 それでも、同じ家に住んでいる以上、いつまでも会話を避ける事など出来ない。その事を十分に認識して、今朝あのような行動を取っただろうか?
 祐一はやや自信が無かった。
「私の部屋、来て」
 名雪ははっきりと言う。
「…ああ」
 この期に及んで拒める立場にはなかった。
 名雪はくるっと階段の方を振り向くと、小走りで上がっていく。
「祐一さん、おかえりなさい」
 その時、二人のやりとりを聞きつけたのか、秋子がリビングから顔を出した。
「はい」
 祐一はそそくさと靴を脱ぐ。
「ご飯、今日は食べますよね?」
「ええ。お願いします」
「わかりました。また栞ちゃんのお弁当が出そうな日があったら、言ってくださいね」
 秋子は笑いながら言っている。
「ほとんど予測不可能なんですけどね」
 祐一も苦笑して返した。
「女の子の気持ちはきちんと考えてあげなきゃだめですよ?」
「重々承知しています」
「祐一さんのことですから、大丈夫だとは思いますけど」
「はは…」
 祐一はどういう風に言葉を返せばいいのかわからなかった。
「私は、いつ栞ちゃんが来ても歓迎しますから、遠慮なく連れてきてあげてくださいね」
「…お願いします」
 恐らく、もう1,2回は世話になる事になるだろう。
「じゃあ、ご飯が出来たら呼びますから」
「はい」
 そして祐一は階段を上がり始めた。
 半ば処刑台を上がるような心地だったが、そんな想像をしてしまう事自体に祐一は深い嫌悪感を覚えた。
 階段を上がりきると、すぐ近くには「なゆきの部屋」の札がかかっているドア…。
 こんこん。
「…入って」
 がちゃ…
 名雪はこたつの中に入って祐一の方を見ていた。
「ノックしない時の方がいつもは多いくせに…」
「…そうかもな」
 座布団が、まるで自分が座るために用意されていた物のように見えてしまう。いつもと同じ位置なのに。
 しかし、やはり祐一はその座布団に座り、こたつの中に足を入れた。
「あったかい?」
「…ああ」
「落ち着く?」
「そうだな」
 名雪はそれから、今朝の様子を思い出させる目をして、
「落ち着いてもらわないと、困るよ…」
 どっぷりと疲れた声だった。
「祐一、取り乱すと、ひどい事ばかりするんだから」
「…今朝だけだ」
「そうでもないよ」
「そうなのか?」
「そうだよ」
 心当たりは無かった。
「とにかく、落ち着いて。それで、香里の事きちんと考えてあげて」
「………」
「このままじゃ、私の問題だけじゃないんだよ…きちんと香里を誰か助けてあげないと、ほんとに香里…ご飯も全然食べていないみたいだし、病気になっちゃうかもしれないよ…」
 ぽつぽつと零れるような言葉だったが、それだけに祐一の心を幾たびにも渡って揺るがした。
「なぁ、名雪」
「なに?」
 名雪の返答はしっかりしていた。
「今日は香里、誘ったのか?」
「出来なかったよ」
「会わなかったのか?」
「そうじゃ…ないけど」
「だったら、どうして…」
 軽い気持ちで言った言葉だ。
「…祐一。私だって、辛かったんだよ?」
 しかし名雪はぐぐっと祐一を強い目で見た。さすがに耐えかねたらしい。
「…すまない」
「ひどいよ」
 非道い、という形容が祐一に使われるのはこれで何度目なのだろう。名雪の心の中で言われたものも含めれば、相当な回数になるのは間違いない。
 それだけの鈍感と軽薄を祐一は繰り返してきた事になるわけだ。
「俺、誰かに一度目を覚まさせてもらった方がいいか?」
「祐一!」
 年甲斐もなく、祐一はびくりと身体を震わせる。
「そのうち本当に怒るよ…?」
 押し殺した怒りがにじみ出していた。
 祐一は大きな戸惑いを感じた。自分の言葉で、まさか名雪が怒るとは思っていなかったのだ。むしろ反省のつもりで述べた言葉だったのだが…。
 だが、名雪は真剣に怒りを表している。
「教えて。私にも全部。祐一ひとりじゃ、無理だよ」
 祐一はたじろぐ。
 名雪から気圧されるなど、祐一は想像だにしていなかった。あるいは、それが祐一の独りよがりさの象徴であったのかもしれない。
「……少し、考えさせてくれるか?今日中には絶対返事するから」
 声に掠(かす)れがあった。
「約束だよ?ただの約束じゃないからね。またはぐらかしたら、たぶん、私祐一の事をぶつよ」
「…ああ」
 名雪に平手を張られる。
 もし実現したなら、確実に祐一の中で何かが壊れることだろう。
 どうしてそこまで、という気持ちよりも、底知れない恐怖心の方が大きかった。
「じゃあ。夕飯すぐらしいから、それには間に合わないかもしれないけど」
「出来るだけ早くしてね。きちんと考えられる状態で聞きたいから」
 確かに、寝ぼけまなこの状況で話し合うわけにもいかないだろう。
「わかった。メシのあと15分もあれば十分だ」
 どちらかと言えば、祐一は名雪がなぜ怒ったのかという事実を整理したかったのかもしれない。


 夕飯は特に何もなく終わった。強いて言えば、秋子が明日の仕事が忙しいために帰りが遅くなると言った事くらいだ。
 名雪の態度も特に変な点はなく、いつも通りに談笑をしながらの水瀬家の食卓となった。
 そして祐一は自分の部屋に戻り、ベッドに転がる。
 名雪は…
 香里の友人だ。
 少なくとも今回の問題に関しては、それ以上でもそれ以下でもない。
 そして、香里は栞の事で激しく悩んでいる。その結果、栞の存在を認めないという行動に出ている。祐一の前で慟哭(どうこく)した、夜の学校でのひとときを除いては…。
 だが名雪は、栞の名すら知らない。栞が病気である事も、それが命に関わる物であることも…。
 ただ、香里と栞が何らかの関係にあるという推測を抱いているだけだ。それと、祐一と栞が恋人としての関係にある事も気づいているかもしれない。
 それから…そう、あの夜、香里が夜の学校に祐一を呼びだした夜、名雪はどんな思いで祐一を見送っただろうか?
 秋子は、あの夜、名雪が祐一の帰りを寝ずに待っていたという事を教えてくれた。祐一は、香里に呼び出されて学校に赴いてから、日が変わるまで家に帰っていなかったのに。
 家を出てから帰るまで、4,5時間はあっただろう。家に着いたのは午前の2時くらいだ。あの睡眠過多の名雪が、よく起きていられたものだと思うが…。
 それはともかく、その夜に何があったのか、祐一はまだ名雪に告げていない。
 つまり…やはり、名雪も真剣に悩んでいる事に比して、祐一が十分な情報を与えていないという問題はあるのだが。
 それ以上のものが見えてこない。
 なのに。
 祐一は、名雪がなぜ怒っているのか、全く分からなくはない気もしてきた。
 論理では絶対に説明できないのだが…。
 香里と祐一の関係…栞と祐一の関係…そこから名雪をシャットアウトする事から、なぜか、罪悪感のようなものが沸き上がってきてしまう…
 締め付けられるように。
 なぜ?
 祐一は自問した。
 名雪とは7年間も会っていなかったのだ。再会してからの2週間少々だけで、こんな罪悪感が生まれるような事をした覚えはない。
 なぜ?
 答えは出なかった。最近、祐一の中には答えの出ない問いが多すぎる。
 あるいは、名雪に十分な情報を与えてこなかったのは、この正体不明の罪悪感を表面化させないためだったのかもしれない。そんな気もしてきた。
 …かと言って、論理で説明できない理由で名雪をこの問題から遠ざけておくわけにもいかないだろう。
「よし」
 祐一は腹を決めた。
 一から十まで名雪に事実を説明するのだ。それで何が起ころうと、自分の責任でしかない。
 わからない点は名雪に説明させるなり、わからないままにしておくなりすればいい。
「よっ」
 ぼんっ、と勢いをつけてベッドから飛び上がる。
「ふぅ」
 こきこきと首を動かした。そして伸びをする。
 祐一には、祐一が一番やりやすいペースがあるのだ。そこから外れては上手く物事が進むはずもない。
 ばたっ、と勢いよくドアを開けた。
 そして廊下をしっかりした足取りで進み、再び名雪の部屋の前に赴く。
 がちゃっ。
「お待たせ」
 いつも通りのトーンで声を掛ける。
「…うん」
 名雪はさっきと同じようにこたつの中に入っていたが…
「祐一…」
「な、なんだよ」
 覇気のない目だった。少しくらいにらまれるかと覚悟していた祐一は、思い切り拍子抜けする。
「…どうか、したのか?」
 ますます名雪の思考が読めなくなってきた祐一は、やや慎重に問う。
「ごめん、さっきちょっと興奮しちゃったかも」
「はぁ?」
「今朝の祐一みたいに…私も取り乱していたみたい」
「………」
 どう反応すればいいのかわからない。
「すこし言い過ぎだったかな…」
「別に構わないって」
「…でも、祐一も悪いんだよ?」
「わかってるよ」
「ただ、祐一の問題の部分に入り過ぎちゃったせいかもしれないけど、私、なんだかすごく嫌な気分になっちゃって」
「頼むから、もう少しわかりやすく説明してくれ」
 もはや大混乱だ。
「ううん、でもこれはやっぱり祐一の問題だから、祐一が自分で気づかないといけないんだよ」
「…はぁ。そうか」
 謎は深まるばかりだった。
「でも、香里の話は教えて。やっぱり私は香里の友達だから」
「ちょっと待て。それ以外に、名雪の関与する余地がどこにあったんだ?」
「だから、それは祐一の問題だよ」
「さっぱりわからん」
「無理矢理わかろうとしなくてもいいよ」
「お前、意外と意味深な表現好きだな」
「しかたないんだよ」
 名雪は下を向いてしまった。
 祐一は理解を諦める事にする。
「…でだ。香里の話だな」
「うん」
 顔を上げる。
「まず、お前も知ってると思うけど、俺が今つき合ってる女の子がいるよな?栞っていうんだけど。香里の妹なんだ」
「う、うん。一年生の制服を着てた、ショートカットの子だよね」
「そう。それでな…」
 祐一はこたつの上に指を乗せて、とん、とんと叩く。
 無数の目覚まし時計のうち、アナログの針が動く音がそれに重なった。
「…うん」
 黙り込んでしまった祐一に、名雪はかなり遅れた相槌を打つ。
 名雪の謎な言動のせいで忘れていたが、栞の置かれた状況を知らない人間に教えるというのはこれが初めてのことだった。
 その持つ重さは小さなものではない。
「ねぇ、言いにくかったら香里の話だけでいいよ?」
「いや。これは説明しないとダメなんだ」
 祐一は、名雪に問われたことで逆に思い切りがついた。
「栞は…」
「うん」
「栞は、病気を患っている。本当は、もうだめなんだろうって言われているらしい」
 予想以上にさらりとした言葉になった。
「だ、だめって」
「悪い。ぼかさないで言う。つまり、死んでしまうと、医者に言われたらしいんだ」
「………」
 絶句した。
 これまでどのような推測をしていたのかはわからないが、それをかなり上回った事実であったのは確かなようだ。
「だから、香里は栞が最初からこの世に存在しなかったように振る舞っているらしい…」
「そんな…」
 やっと出てきた名雪の言葉は、絶句と大して変わらない。
 祐一も言ってみて気づいたが、これは聞いた人間を絶望に突き落とすだけに相応しい力を持った事実なのだ。問題の当事者でない人間にとっては、この上ない無力感を感じさせてしまうのは間違いない。
 無論祐一も無力感を感じてしまうことはあるが、問題に直接関われない人間にとっては、その無力感はどれほど大きいものだろうか…。
「そんな、そんな…」
 名雪は虚ろに繰り返した。
「でもな、名雪」
「………」
「香里の事は間違いなく名雪の方がよく知っている。それに、香里を励ましてやるには、俺は問題の中心にいすぎると思うんだ」
「でも…」
 力無くつぶやく。
「やってみなきゃわからないだろ。強引にでもどっかに引っ張っていって、少しでも普段通りに接してやってくれ」
「香里の前で、私、普段通りでいられるのかな…」
「大丈夫だ、名雪、お前なら」
 根拠はなかったが、祐一は自信を持って言った。
「うん…」
「じゃあ、頼んだぞ」
 祐一はこたつから出て、立ち上がる。
 思ったよりも、はるかに短い時間で済んでしまった。
「あ、あの、祐一っ」
「なんだ?」
「ごめんね、ほんとに。私、なんだか自分のことしか考えてなかったみたい」
「そんな事ないだろ…俺も、少しびしっと言ってもらって、なんかすっきりしたかも」
「ごめんね」
 祐一が部屋に入ってきた時より、さらに落ち込んだ表情だった。
「いいって…でもさ、名雪、俺がした事って、なんなんだ?ヒントだけでもないのか?」
「ヒントとか、そういう問題じゃないから…」
「そうか」
「ねぇ、祐一……栞ちゃんの事、愛してあげなきゃだめだよ」
「もちろんだ」
 迷いは無い。
「…そうだね」
「じゃあな。あんまりくよくよせずに、香里を元気づけてやってくれよ」
「うん。おやすみ」
「おやすみ。早いな」
 祐一は苦笑する。
「うん…今日は早めに寝るね」
「考えすぎるなよ」
「…うん」


 次の日。
 かち。がちゃっ。
「お邪魔します」
「ああ」
 誰もいない水瀬家に、栞と祐一が入っていく。
 名雪は、部活の関係で遅くなるらしい。図らずも無人の水瀬家ができてしまったわけだ。別に二人は適当にここに来たというわけではなく、ちゃんと目的を持って来ていたのだが…。
 二人は一直線に祐一の部屋へと向かっていく。
「もう3回目か…」
「そうですね」
「慣れたか?」
「男の人の部屋に入るのに、そんなに簡単に慣れたりしません」
「そんなもんかな」
「そんなものです」
「俺なんか、名雪の部屋に入るのに何の抵抗もないけどな」
「どなたでしたっけ?」
 栞が軽く首をかしげて考える。
「あ、言ってなかったっけ?俺の従姉妹。この家に住んでる。ほら、あの部屋」
「そう言えば、聞いてたような気もします」
「どっかで言ったような気がするな」
「でも、やっぱり親戚同士だと違うんじゃないですか?」
「俺はわからないけど…」
「私の場合、いとこがいないですから、逆にわからないんですけど」
「どうかな。ま、名雪には7年も会っていない時期があったけど、他人だって思わないしな」
「そうですか…」
 がちゃ。
 祐一は自分の部屋のドアノブを回す。
 そのまま机のところまで歩いて、持っていた荷物を置いた。
 栞はドアを閉めると、そのままドアの前にたたずんでいる。
「じゃあ、栞さ、決めた順番でいいか?」
「順番なんてわざわざいうほどの話じゃないと思いますけど…」
 恥ずかしそうに頬を染めて言った。
「それで、いいです…」
「よし。決まりな」
「祐一さん、なんでそこまでえっちなんですか?」
「この場合、えっちかどうかは関係ないだろ」
「関係あります」
「単に、そっちの方が栞がやりやすいと思っただけの話だ」
「それは…そうですけど」
「だろ?」
「祐一さんも、そっちの方が落ち着くでしょうし」
「そうそう」
「変に嬉しそうに言わないでくださいっ」
 栞はむくれて言う。
「別に、栞だって嫌なわけじゃないだろ」
「でも、あんまり強調すると、目的が違うみたいに聞こえますっ」
「そうか?」
「そうですっ」
「まぁいいや、栞もいいって言ったんだし」
「う…」
 祐一は栞の方に近づいていった。
「いいな?」
「…ええ」
 栞は今一度頬を赤らめる。
 それから、自らの手を着衣にかけた。
 まずショールがするりと抜けて、ベッドの上に畳まれる。そして、制服の上着から順番に、段々と脱いでいく。無論栞は恥ずかしさを隠してはいなかったが、その淡々とした脱ぎ方は、まるで自分ひとりで脱いでいるかのようなペースだった。
「あんまり、急がなくてもいいぞ」
「…なんだか、変な意味に聞こえます」
 栞はもごもごとシャツを脱ぎながら言った。
「いや、なんか随分焦ってるみたいに見えたから」
「そんな事ありません」
 すぽん、とシャツを脱ぎ去って言う。
「単に、時間の問題です」
「そうか」
「祐一さん、楽しんで言ってませんか?」
「いや?」
「絶対楽しんでます」
 ぷーと膨れる。
「人聞きが悪いな…」
「祐一さんが変な事言うのは、いつもです」
「栞もな」
「そんなことないです」
 スカートのホックに手をかけながら言う。
「人のフリみてわがフリ直せって言うだろ」
「祐一さんもです」
 爪先までスカートが脱げた。
 栞は二つの下着姿のまま、胸を隠してちょこんとフローリングの上に立つ。
「なんか、全然雰囲気出ないな」
「どういう意味ですかっ!」
「なんだかなぁ」
「祐一さんっ!」
 栞は胸をますますぎゅううと隠しながら怒る。
「いや、そういう意味じゃなくて」
「どういう意味ですかっ」
「なんか、あんまりぽんぽん脱いでいっちゃうからさ」
「えっちな脱ぎ方期待するのは祐一さんがえっちな証拠です」
「ま、いいか」
「投げやりに言わないでくださいっ」
「悪い悪い…っていうか、いつまでもこんな話してると、全然その気にならないな」
「『その気』って…そんなこと、さらっと言わないでください」
 胸を隠したまま、視線をそらす。
「ぼかして言っても仕方ないだろ?」
「そんなことないです、遠回しな言い方は雰囲気づくりに大切です」
「あーもういいや、こんな事ばっか言ってるとかえって雰囲気なくなるだろ」
 祐一はさらに一歩栞に近づく。
「でもっ」
 そのまま、栞の後ろに回り込んだ。
「ゆ、祐一さんっ」
 無言で抱きしめた。
「あ、あの」
 栞は何とか後ろを向こうとしたが、身長差が大きくて祐一の顔はよく見えない。もがく栞を、祐一はより強い力で抱きしめた。
「ちょ、ちょっと苦しいです」
 それでも離さない。
 栞はなおも身体を動かそうとしていたが、やがて諦めたように下を向いてしまった。
 静かな時間が経過していく。
 雪国の住宅地だけに、車が外を通る音すら聞こえてくることは無かった。ついさっきまで掛け合いの会話を続けていた二人も、しんとした空気が染み込んできたかのように沈黙に落ちていた。
 互いの身体の密着が、とても柔らかく感じられる。性交の密着とはまた違う、温かな安心感だ。
「…なぁ」
 祐一は栞の耳元にささやきかけた。
「いいか」
「こんな即席の雰囲気の作り方、卑怯です…」
 言いつつも、栞の言葉には勢いが無かった。
 そこに肯定の含意を見て取り、祐一は栞の身体に回した手をゆっくりと解く。
 そして、目の前にある栞のブラジャーのホックに手をかけた。かちゃかちゃと2,3回いじくり回していると、ぷつんと簡単に取れる。ただ、栞が未だに胸を押さえていたため、ブラジャーが床に落ちる事はなかった。
 それについては何も言及せず、祐一は体勢を低くする。そして、栞のヒップを覆っているショーツの二箇所に指を引っかけた。
 皮膚とコットンの間に潜り込んできた指の感触に、栞は身をよじらせる。しかし栞の手はしっかりと胸を押さえており、ショーツを押さえに来る様子はなかった。
 祐一は一気にショーツを下ろす。ショーツの後ろの部分だけをつまんでいたために多少無理な力で引き伸ばすことになってしまったが、何とかうまく脱がす事が出来た。子供が脱ぐときのように、生地を裏返しにした状態で引きずり下ろす事になってしまったが…。
 ショーツを足元まで下ろしておいてから、一回だけ、太股からヒップまでそーっと指をつたわせた。ぴくんと栞の身体が動く。
 だが、祐一は背後からの愛撫を続けることはせず、栞の前の方に身を動かした。栞は支えを失ったブラジャーを自分で押さえたまま、不安そうに祐一の事を見ている。一筋の亀裂も、祐一の前に無防備なままさらけ出されている。
 少し不安ではあったが、祐一は最初から秘裂に指を触れさせる事にした。今から立ち上がって胸への愛撫を加えるというのも間が悪い気がしたのだ。
 祐一が人差し指を近づける。栞は逃げるように少し腰を引く。しかし栞の足は動かなかったので、祐一の指は容易に目的のところまでたどりついた。
 ただし、最初に指が向けられたのは、秘部からやや外れた、足の付け根の部分だ。そこを人差し指の先だけで、極めて軽いタッチで愛撫する。
 性感帯とは遠くはずれた部分だったが、栞が一昨日見せた悦楽の肢体を考えれば効果はあるのではないかと思ったのだ。
 祐一は慎重に愛撫を繰り返した。単調にならないように、上下左右・回転など動きを変えてみたりする。
 しかし栞はほとんど反応を返してこなかった。焦った祐一は、段々と指の刺激する場所を核心の部分に近づけていく。
 栞の表情が、少しずつ困ったようなものになっていった。同時に、呼吸も上がり始めている。
 柔らかな秘裂の周りの部分をこねくり回す頃には、祐一にも栞の上がった吐息が聞き取れるようになっていた。なまめかしいその音韻が、祐一の行為を次第に勇気づけていく。
 指先は、前回と同じ熱を感じ取っていた。栞の身体は高ぶってきているのだ。祐一はそれを確認すると、核心に侵入すべく、自らの唾液で指を濡らしていく。
 その指で、秘裂をくい、と割り広げた。
「あっ」
 祐一は思わず小さな声を上げてしまった。
「な、なんですか?」
 不安そうな声が上がる。
「も、もう濡れてる」
「え」
「すごい」
 祐一は本気で感心して、そのきらきらと光る液体を指に絡め取った。液体の染みだした入り口から祐一の人差し指の先まで、つつーっと糸を引く。
 その指を、祐一はおもむろに口に含んだ。
「ゆ、祐一さん」
 酸味と入り交じった淫靡な風味。男を興奮に導くエキスだった。
「はずかしいです…」
「栞」
「は、はい」
 栞は返事をした。しかし祐一は言葉を続けなかった。
「あの…」
 次の瞬間、祐一は自らの唇を栞の秘部に押しつけた。
「あうっ!?」
 接触の瞬間栞が上げたのは、驚きから来る声だった。
 ぬっ、ぬるっ。
 祐一は秘裂の間に舌を差し込んで、栞の粘膜をなぶる。
「あ、あ…そんなっ」
 栞はむしろ困惑の声と表情を見せた。
「き、きたないです」
 ヴァギナからあふれ出す液体を舐め取るように舌を伸ばす。祐一の行為は、全力で栞の言葉を否定していた。ほとんど無我夢中だ。
「う…ううっ」
 最初の内は腰を左右に動かして抵抗していた栞だったが、ねっとりとした祐一の舌の動きに快感を抑えきれなくなってきた。ふるふるとショートカットを振りながら、自分の胸をぐいぐい押さえつけて必死に耐える。
 ぢゅうっ…
 刺激によって勃起したクリトリスを、祐一は唇でくわえて吸い立てた。
「つ、強すぎますぅ…っ」
 切羽詰まった声だ。
 だが、すぐに祐一が優しく舐め上げる動きに切り替えると、
「う…ううんっ」
 甘みを帯びた嬌声が漏れ出す。
 家に誰もいないという事実があるせいか、栞はこれまでに比べて比較的大胆な声を上げていた。乱れていく自分を隠そうという素振りが、かなり薄くなっていた。
「あ…あぅ」
 栞の愛液の味がつんと強くなり、粘り気も増してくる。腰がぴくぴくと震え始めている。
 祐一はそれに気づき、クンニリングスを中断した。
「は…はぁ」
 栞は声を荒げながら、夢見るような瞳で祐一を見た。
「なぁ、これをやった後なら…大丈夫だよな?」
 鼻にまでかかってしまった愛液をぬぐいながら、祐一が問う。
「は、はい」
 何かがふつりと切れたかのように、栞は手を胸から離す。はらりとブラジャーが床に落ちた。
 そして、栞はふらつく足取りでベッドに向かい、ころんと倒れ込む。
 しとどに濡れた性器を隠そうともせず、栞は仰向けの姿勢で祐一を待った。
 祐一は手早く服を脱ぎ捨てていく。トランクスまで含めて、全て脱いでしまう。
 全裸になるのを見られているのはどことなく間抜けだと思いつつも、祐一はベッドに上がった。
 ひゅくひゅくと震える小さな性器が祐一を待っている。さっき祐一が口づけていた部分だ。見た目はどうしようもなく幼いのに、びちょびちょに濡れてしまった状態は、どう見ても成熟したそれだ。
「…いくぞ」
 祐一は栞の上にのしかかった。
「はい」
 不安の色はない。とろけるような少女の声だった。
 ペニスを、淡白く濁った液体のあふれ出す元へと当てる。
 軽く押し込むと、栞の処女を奪ったとは全く違う、ぬるんとした潤滑な受け入れがあった。
「あうっ」
 栞の上げた声も、苦痛から来るものではない。初めての時の感覚とあまりにも違う事への戸惑いと言った様相が強かった。
 ずるっ…と、最も深いところまでやすやすと祐一のペニスが侵入する。栞の性器は、それをきゅうっと自然に締め付けた。
「ん…」
 くぐもった声。
 ペニスとヴァギナの強い密着も、性への刺激になりこそすれ、痛覚への刺激にはならなかったようだ。
「大丈夫…みたいだな」
「はい…」
「こんなになるんだったら…最初からこういう風にしとけばよかった」
「知りません…」
「そうだな」
 祐一がぐっと引き抜き、そして突き入れる。
「ふぅっ…」
 反射的に声が漏れてしまうらしい。
 ずっ、ずっ、と祐一は動きを段々とリズミカルにしていく。
「あ…祐一さんっ」
 栞は完全に身体をベッドにスプリングに委ねてしまった。
 抽送に合わせて小刻みに震える二つの乳房を、祐一は両の手で包み込む。きめ細かな感触のそれを、祐一は多少乱暴な手つきで揉んでいった。
 これまで全く刺激を受けていなかった乳房の先端も、既に固く尖ってしまっている。祐一が愛撫を加えると、それはますます固くしこっていった。
 三つの箇所の間断ない刺激。栞の身体はヴァギナへの抽送自体によって明確な快感を感じるほどにはなっていなかったが、不意にクリトリスをかすめる刺激が第四の刺激ともなり、どんどん追いつめられていく。
「…っ」
 栞が顔をしかめて、開いていた脚をぐっと閉じた。
「………」
 そのまま、茫然とした瞳になってしまう。
「なぁ、栞、ひょっとして」
 抽送を止めずに祐一は訊く。
「…はい」
 栞はぼうっとした返事を返した。
「でも、俺はまだだから…」
「ええ、大丈夫です…」
「そうか」
 祐一は同じペースでの性交を繰り返した。
 栞はほとんど理性を失ったような表情で祐一の行為を受け止める。喘ぎ声すらも上がらなくなっていた。
 それでも、たっぷりとした愛液は尽きることを知らないようにあふれ出している。祐一はただ力強くストロークを打ち込む事だけに集中できた。
 それがベストの動き方なのかはわからなかったが、少なくとも祐一はこの上なく気持ちよかったし、栞も十分な快感を感じているのは間違いなかった。
 そして、祐一も限界を迎える。
 最後に、全力を使って栞の奥深くを衝(つ)いた。
「ああ…」
 栞の惚けた声。
 びゅっびゅっ…と、どろどろになった栞の胎内にさらに熱い液体が放出されていく。
 祐一は栞の上に倒れ込んで抱きかかえながら、絶頂の快感を味わっていた。


 二人が普通に動けるようになるまで、意外と時間がかかった。
 栞が、ほとんど精力を使い果たしたかのようにぐったりしてしまったのだ。祐一が多少からかっても、疲れたように顔を赤らめるだけだった。
「ほんとに大丈夫なのか?」
「ええ…ちょっとふらふらしますけど。それより、動かないでください」
 そしてだいぶ経ってから、二人は別のことを始めている。
「ああ」
 栞は四本の指でそれらしく作った枠を、前に動かしたり後ろに動かしたりする。
 手には真新しいスケッチブックと、同じく削り立ての柔らかそうな芯の鉛筆。
「どれくらいかかるんだ」
「わかりませんけど。2時間くらいは見ておいてください」
「ぎりぎりだな…」
「やっぱり、先に絵を描いておいた方がよかった気もします」
「もう遅いだろ」
「そうですね…それより、本当に動かさないでください」
「ああ」
 じーっと祐一の事を見つめながら、栞は前後だけではなく上下左右にも指を動かしていった。
「なぁ、構図だけで…」
「動かないでくださいっ」
「はぁ」
 祐一は諦めた。


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