美咲[表現]


(以下のストーリーはこのSSの作者の解釈によるものです)
 大学生藤井冬弥と、その恋人にしてアイドル歌手森川由綺。二人には高校時代からの付き合いがあったが、由綺が緒方英二のプロデュースやマネージャー篠塚弥生のサポートによって成功の道を歩むにつれ、会える時間が短くなっていく。
 二人には、高校・大学と共通した先輩である澤倉美咲がいた。彼女は文学や演劇に興味を持ち、細やかな気配りを持つ女性であることもあって、多くの人に愛される存在であった。だが、冬弥が文化祭で彼女の手がけた演劇を手伝うなどしていく中で、美咲の冬弥に対する秘めた思いが明らかになっていく。やがて、二人は密やかに恋人同士としての関係を築いていく。
 美咲は幾度も身を引こうとするが、冬弥はそれを引き留め、美咲もそれに抗う事は出来なかった。自己嫌悪に苛まれる美咲。冬弥達の共通した友人である七瀬彰は美咲に純粋な恋愛感情を抱く人間だったが、美咲と冬弥の行為は彰に対する裏切り行為であった。そしてもちろん、由綺に対する裏切り行為であった。
 そんな中、由綺は歌手としてのビッグイベントである「音楽祭」で、「最優秀賞」の次点である「優秀賞」を獲得した。「最優秀賞」を獲得したのは、緒方英二の実妹である緒方理奈である。
 その「音楽祭」の日、彰は美咲の気持ちを知り、由綺と美咲の間で揺れる冬弥を詰問した。誤魔化そうとした冬弥の事を、普段はおとなしい彰が容赦なく殴る。
 河島はるかは冬弥達の共通の友人としてこの一連の事態を理解していたが、それに干渉する事は無かった。彰に殴られた冬弥を家に連れて帰り、介抱したのは彼女である。
 それから、2ヶ月が経った。


 サラサラサラ…
 と、表現すればよいのだろうか。シャーペンの先がルーズリーフの上を滑っていく。芯と紙の摩擦などわずかなものだ。自分で書いている時は全然気づかないような微かな音だった。でも、いざ鑑賞しようと思えばきちんと聞こえるのだ。
 そんな事に注意を向ける気になれるのは、そのシャーペンを動かしているのが美咲さんだからかもしれない。俺の恋愛感情というだけではない。静謐な決意を込めたかのような細くすらりとした指先があるからこそ、単なるメタリックな濃紺のシャーペンに俺は惹かれるのだ。
 美咲さんの指とそのシャーペンは一体化していたと言ってもいいかもしれない。少なくとも、俺の鑑賞の視点からすればそうだ。窓の外からは4月の陽光が差してきて、シャーペンの先から柔らかめの影を描き出す。美咲さんが文字をつづる度に、細い影が軽快に踊る。それは時として、ルーズリーフの上に写った美咲さんの髪の影を掠めた。真っ白な紙の上に映える細い毛先の影は、どこか不思議な魅力を感じさせる。
 俺は顔を上げて、美咲さんの髪の毛自体を見つめてみた。毛先は陽光に透かされ、少しブラウンがかって見える。あたかも美咲さんの優しい感情を体現しているかのように見える髪の毛と、それが投影された影。二つのコントラストは絵画的だった。
「………?どうしたの?」
 美咲さんがペンを止めて、顔を上げた。俺の視線に気づいたらしい。ただし、小さな声だ。
「ん?なんでもない。美咲さんに見とれていただけ」
 俺も小さな声で返した。そのせいか、妙にもったいぶった、秘密を打ち明けるみたいな声になってしまう。
「ふ、藤井君…」
 美咲さんはちょっと目を伏せて、周りにちらちらと目をやった。それほど人はいない。休日の図書館にはあまり学生も来ないのだ。
 こういう時の美咲さんの反応は、いつまで経っても変わらない。二人でいる時ならまだしも、他に誰かがいるときにこういう台詞を言ってみると、必要以上に気にした反応をしてくれる。と言っても、今の俺の台詞が聞こえていた人間が周りにいるとも思えないのだが。閲覧室で勉強したり本を読んだりしている人間の数は本当にまばらなのだ。
「いや、ほんとだよ。なんか、美咲さん絵に描いてあるみたいできれいだった」
 俺の台詞はウソではない。美咲さんを形容する表現なら、一晩語り明かす事が出来るくらいの自信はある。
「っ…!」
 その時ちょうど俺達の横を誰かが通っていった。美咲さんが息を飲む。
「ふっ、藤井君」
 突然美咲さんはシャーペンを筆箱に突っ込んだ。芯も戻さずに。そして消しゴムも突っ込むと、チャックを一瞬で閉じる。ルーズリーフを慌ただしくまとめて、筆箱と一緒に白いトートバッグに放り込む。
 あっけにとられている俺が目に入らないかのように、美咲さんは椅子から立ち上がった。
 床を引きずったのか、ずずっという大きな音が立つ。
「あ…」
 その時初めて、何人かの人間が俺達の方を向いた。そいつらはちらりと目を向けただけで、すぐに各自の作業に戻る。
「美咲さん…」
 落ち着いてよ、と声を掛けようと思った。
 ところが美咲さんは入り口の方に歩き始めてしまう。ほとんど小走りだ。
「………」
 俺の責任なんだろうか、と思いつつ、立ち上がる。
 美咲さんの座っていた席の横には、バッグが置きっぱなしにされていた。


「ねぇ、美咲さん…」
 図書館の入口を出る辺りで美咲さんに追い付いた。読んでいた本を棚に放ってくる分、時間が掛かったのだ。
 そのまま美咲さんの横に並ぶ。
「ご、ごめんね…」
 歩きながら美咲さんが言った。
「冗談だった…ってわけじゃないけどさ、あんなに恥ずかしがらなくてもいいのに」
「で、でも、前のこともあるし」
 前のこと?
 俺は頭の中の記憶を探る。
「ほら、前、図書館で本を藤井君が取ってくれようとした時…」
 あ。
「そんなの、みんな忘れてるよ…それに、さっき俺達の話を聞いてた人間なんていなかったし」
「そ、そうかな?」
 美咲さんが、少しばつの悪そうな顔をする。
「そりゃそうだよ。でも、さっき書いてたのもういいの?中途半端なとこだったんじゃない?」
「ううん、いいの。一段落ついたところだったから」
 多分言い訳なんだろうなと思いつつ、俺はこの話題を切り上げる事にした。美咲さんの可愛らしさって言うと安っぽくなるけど、この性格も美咲さんの魅力を構成している一つの要素だと思う。
「じゃあ、どっかで少し休んでく?まだ早いし、大丈夫でしょ?」
「うん、そうしようか」
 美咲さんが微笑んだ。
「どこがいい?」
「うーん…藤井君の好きなとこでいいよ」
「そう言われると、結局いつもの所になるっぽいなぁ」
「いいんじゃないの?」
 そこで美咲さんが何かを思いだしたかのように俺の左手を見た。
 トートバッグ。
「あ、あ…ごめんなさい」
 美咲さんがまた謝る。
「いや、別にいいけど…でも結構重いよ。持ってようか?」
 バッグの中にはファイルや本がいくつも入っており、かなりの重さのように思える。バッグの生地の薄さのせいかもしれないが。
「ううん、大丈夫。自分で持つよ」
「卒論?」
「違うの。また演劇部の方から頼まれていて」
「え、また?」
 つくづく他人任せの演劇部だった。
「だって美咲さん、卒論と就活だけで相当忙しいんじゃないの?」
「ちょっと、霞ヶ丘からの友達だし、断りきれなくて」
 少しだけ困ったように、美咲さんは笑った。
「美咲さんの劇が見れるのは嬉しいけどさ。あんまりやる事抱えすぎると、大変だよ」
「ううん、私の劇だなんて…実際に劇を作るのは演劇部の人達だよ」
「でも、劇って脚本が一番重要なんじゃないの?」
「そんな事はないよ。脚本も大切かもしれないけど、演出さんや役者さん、それから音響さんや照明さんとか、全部大切さは同じなんだから」
 なんとなく美咲さん的考え方にも思える。
「そう言えばさ、前から不思議に思ってたんだけど、うちの演劇部ってそんなに実力あったっけ?」
 そう。
 部室より飲み屋の方が好きみたいな部がなんであんな人を集められる劇を作れたのか、常々不思議に思っていたのだ。脚本と他の部分が同じ大切さなのかどうかはともかく、役者の演技力とかがあまりにも悲惨なレベルならば脚本を生かせないという事は俺でも察しがつく。
「うん…」
 美咲さんの表情が少し曇る。
「あのね…これ、他の人とかにあんまり言っちゃだめだよ」
「うん」
「あの部、前から演出さんと舞監さんがあんまり仲良くなかったんだけど…」
「ぶかん?」
「舞台監督さん。去年の学園祭の時は、ケンカしちゃって…部が二つに割れて、部員がかなり辞めちゃったんだって」
「へぇ…」
 それは知らなかった。
「でね、演出さん…部長の人なんだけど…がなんとかして劇をやろうとして、知り合いの他の大学の人に声掛けたんだって」
「え?」
「その大学は劇団がいくつかあったらしいんだけど、その内一つの劇団が協力してくれるって言って。演出とか、とにかく全部協力してくれたらしいの。だから、うちの大学の方の部長さんは演出じゃなくて役者に回ったらしいんだけど」
 なんじゃそりゃ。
「それって、全然うちの演劇部の作品じゃないんじゃないの?」
「ふふふ…私の脚本を使うってことで、何とか誤魔化したみたい」
 そんなのでいいんだろうか。
 部を守るという事がどれほどの意味を持っているのか、俺には今ひとつわからなかった。
「なんだかなぁ。でも、その大学の劇団って結構なレベルの人達なんでしょ?」
 学園祭の劇の評判とかを聞く限りでは、少なくとも素人集団でないということはわかる。
「うん、その大学って演劇やりたがる人が多いんだって」
「って事は、その劇団の人間も美咲さんの脚本をすごく評価したんだ?」
「え…」
「だって、そうでしょ?そうじゃなきゃ、協力なんてするわけないじゃん」
 美咲さんはまた恥ずかしそうにうつむいてしまう。恥ずかしがるという行動パターンから美咲さんを操るのは簡単みたいだった。
「たまたま…向こうの人も気に入ってくれたから、良かったんだけど…私なんかので、いいのかなって…」
「たまたまなんてわけないじゃん。前評判だけであれだけ人を集めちゃったんだから。うん。俺、また美咲さんの事見直したよ。俺が想像してたのより、美咲さんの力ってずっと広く知れ渡ってるんだ。やっぱすごいよ」
 まくし立てるように言う。美咲さんはますます恥ずかしがっているようだった。
 恥ずかしさという感情は怒りや悲しみとかと違って、レベルが上がっていっても表面上はよくわからない。美咲さんの中にはそれぞれの段階に意味合いがあるのかもしれないけど、俺には理解しにくい感情だった。
「ありがとう…」
 しばし沈黙した後、美咲さんはそっとつぶやく。
 その瞬間。何か懐かしいような、悲しいような微妙な感覚がこみ上げる。
 なぜだ?
 俺はとまどい、その原因を俺の記憶の中に探る。
 明確なイメージは結ばれなかった。だが、推測の結果として最も妥当なのは、由綺の姿のようにも思えた。
 由綺はいつも美咲さんの事を尊敬していたし、去年の学園祭にもし来れたなら絶対に来ただろう。そして、美咲さんの劇を見て、美咲さんに絶賛の言葉を送ったに違いない。しかし由綺は美咲さんの劇を見ていない。俺も見ていないが、学園祭の時には美咲さんのそばにいた。
 その辺から、色々と歯車が狂い始めたのだ。あるいは、俺が狂わせ始めた。
 美咲さんの劇への賞賛と由綺。つなぎ合わせるのは適当なように思える。
「……どうしたの?」
「あ、いや…」
 俺は反応に窮した。
「あ…」
 その時、美咲さんが顔を曇らせる。
 ………
「ごめん、藤井君、バッグ…」
 え?
「あ、そうか、はい、美咲さん」
 少し動揺しつつも、トートバッグを差し出す。
「ごめんね、結局ずっと持たせちゃって」
「いや、俺も考え事してただけだから…謝るほどの事じゃないよ」
「私も、ちょっと色々考えてて…ごめんなさい」
 美咲さんの表情に、少し苦笑いが混じる。
「創作活動だもんね。いつもインスピレーションが回っているの?」
「そんなことないよ。でも、たまに全体の流れとかは確認したくなっちゃうこともあるかな」
「美咲さんの脚本、早く見たいな。前みたいに。感想くらいしか言えないと思うけど」
「うん、私も藤井君に見てもらおうかと思ってたの。それだけで、すごく勇気づけられたから…」
 お世辞でも、素直に嬉しい。そう思わせてしまうのが美咲さんの力なのだろう。
「あー、桜も、葉っぱになっちゃったなー」
 正門を出た所の道が、桜並木になっているのだ。演出的には安っぽいのかもしれないが、花の時期には素直に綺麗だと思える風景が展開される。
「うん。でも、ひとつひとつの樹がよくわかるようになるから、私はこういう桜も好きかな」
「美咲さんらしい感想」
「そう?」
「だと思うよ」


 俺達は結局、駅の近くにあるチェーンのコーヒーショップに入った。
「なんか、ここの雰囲気にも妙に慣れちゃったね」
 俺はカップの中からティーパックを取り出しながら言った。
 我家で入れる紅茶との差は、歪んだ三角すいみたいな形のティーパック。あるいはガムシロップ。
「うん、この辺は学生も多いしね。私達には、ちょうどいいのかも」
 美咲さんもティーパックをプラスチックの皿みたいなのに置く。俺と同じ、ホットティー。熱い飲み物が恋しい季節はとっくの昔に過ぎ去っているのだが、なんとなく二人ともホットを飲み続けていた。最初にここで頼んだのがホットティーだったという惰性が続いているのだ。
「俺はコーヒーとか紅茶の味よくわかんないけどさ、美咲さんはどうなの?やっぱ、こういうとこで飲むのってそんなうまくないと思う?」
「どうかな…普通の味だし、飲んでて変に思うところはないし、安心できる味だって思うけど」
 どんなに平凡な物でも、褒めるだけの語彙と心構えが美咲さんにはあるようだった。
「美咲さんの作ったお菓子って、みんなメチャクチャうまかったし。だから、飲み物とかにもうるさいのかなって思ったんだけど」
 本人の味覚がダメなのに料理の腕がいいなんて話は聞いたこともない。芸術家なら趣味が悪い人間とかがいるかもしれないが、料理とかは違うはずだ。
「そんな前に作ったお菓子の味、覚えてくれていたの?」
「当然だよ」
「ふふっ。ありがとう。作った時は、藤井君が気に入ってくれるかなって、本当に気にしていたんだけど」
「美咲さんの作ったものに失敗なんてありえないよ。何をやるときも、すごく丁寧に、慎重に進めていくんだから」
「そんなに喜んでくれると、少し恥ずかしいけど…また、いつか作ってみるね」
 美咲さん本人から「恥ずかしい」という言葉が出てくるのは、例外なく本心から喜んでくれている時だ。
「うん、俺期待してるから」
「あ…」
 美咲さんが何かを思いだしたかのように動きを止める。
「ひょっとして、藤井君の誕生日って…」
「あれ?あ、そういえばそんなものも」
 俺の誕生日は4月だった。
「ごめんなさいっ、私…」
 突然美咲さんが謝る。
 確かに、俺は既に21になってしまっているのだが…。
「だって、俺、美咲さんに誕生日なんて言ってなかったし」
「ううん、確か、高校のときに、一度…」
「そうだっけ?つーか、俺の方が覚えてないんだけど」
「でも、絶対に聞いた覚えがあるの。ごめんなさい。忙しかった…なんて、言い訳にならないね。本当に、ごめんなさい…」
 美咲さんは本気で動転しているようだ。
「いいからいいから。そんな事で謝られてたら、俺も美咲さんの情報を何から何まで集めなきゃなんなくなっちゃうよ。ストーカーみたいに」
「でも…」
「じゃあ、今度誕生日ってことでお祝いしようよ。二人で、どっかで」
「私…本当に、ごめんね…」
「大丈夫だよ。美咲さんの作ったものが食べられるだけで、俺はすごく嬉しいから」
「うん…」
 美咲さんは、カップの紅茶を少し飲んだ。つられて、俺もカップに手を伸ばす。
「本当に忙しいんだろうから、無茶はしないでよ。美咲さんが倒れても、俺、お見舞いに行くくらいしか出来ないし…」
「それは問題ないの。劇にしても私の好きでやっていることだし、卒論もいいテーマが見つかったから」
 美咲さんはちょっと微笑んでくれた。少し疲れたみたいな色が見える微笑みだったが。
 俺も紅茶を飲むことにする。いつも通りの温かさと、いつも通りの味だ。
「ふぅ…」
 パックの紅茶でも多少気分を落ち着ける効果はあるようで、俺は何とかテンションを調整する事が出来た。美咲さんも、そうだろう。
「ところで、今回の劇ってどういう感じにするの?」
「どういう感じって?」
「んー、まぁ、ストーリーとか。あと、テーマとか?」
「うーん…」
 美咲さんはまた紅茶に手を伸ばした。ゆっくりと、考え事をするかのようにカップを唇につけ、そしてカップを軽く傾ける。
 その作業に、たっぷり20秒は掛かった。
「はっきりストーリーとかは決まっていないんだけど…」
「うん」
「今回の劇ね…七瀬君とか、由綺ちゃんとか、はるかちゃんとかにも見に来てもらえたらって思ってて…」
「え?」
「うん…」
 そう言って、美咲さんは視線をわずかに下に向けた。
 そしてまた紅茶のカップに手をかけて、取っ手に指先を絡めたまま、美咲さんは黙り込んでしまう。
 彰、由綺、はるか?
 一人一人の顔が、エンド・ロールか何かのように俺の脳裏を滑っていく。
 その後で、一人一人の声。それから仕草や後ろ姿。そんな片鱗が、よく自分でも覚えていたというくらい浮き上がって消える。いや、2ヶ月も前には普通に会っていた人間達なのだから、覚えているのが当たり前なのだが…。
「うーん…」
 俺が声を漏らすと、カップに添えた手はそのままに、美咲さんは顔だけを上げた。
「藤井君も、直接会うのは大変かも知れないけど。ううん、一緒に見れなくてもいいの。劇の後でとか、私も」
「美咲さん」
 俺が遮る。美咲さんはじっと俺の瞳を見つめる。
「別に、俺が会うとかそういうことの問題じゃなくて」
 俺も美咲さんの瞳を見つめ返す。
「テーマってこと?」
「え…」
「その3人、いや、俺達5人の…『何か』」
 「何か」という不特定指示対象には卑怯な響きがあったが、はっきりと言うのは憚(はばか)られた。
「あ…」
 想像した通り、美咲さんは視線を宙に泳がせる。
「違う?」
 詰問するような言い方はしたくなかったが、確かめなければならないことなのだ。
「別にね、私達の事を書きたいわけじゃないんだ…」
「そうだろうね」
「ただ…」
「これは俺の想像だけど」
 また俺は遮った。
「美咲さん、間接的な形で謝ろうとしているんじゃないかって思う」
「かんせつてき…」
「わかんないよ。わかんないけど、直感的にだけど、多分、3人を呼ぶのは、なんか違うと思う」
 俺も視線を宙に浮かして言った。
 美咲さんと俺と、二人の噛み合わない視線が、色々なところを彷徨う。それは多分空間的な広がりじゃなくて、時空的な広がりに囚われていたんだろう。
 二人の意識をコーヒーショップに引き戻したのは、美咲さんの「はぁ」という小さなため息だった。美咲さんがため息なんかついたのを見たのは初めてかもしれない。そのレアリティーが俺の意識を引っかけたのだ。
 俺はまた美咲さんの瞳を見つめる。今度は、美咲さんの視線は下を向いたままだった。
「考え直した方が…いいかもね…」
 美咲さんがつぶやいた。
「ごめんね…なんだか、私…」
「美咲さん、少し、神経張りつめ過ぎているんじゃないかなって気もするな」
 俺は、美咲さんに脚本を書き直させる労を詫びるべきだったのかもしれない。しかし、それが言葉を結ぶ前に出てきたのは違う台詞だった。
「そんなことないよ…」
「だって…」
 俺は美咲さんの右手の上に、手の平を重ねた。
 美咲さんの口が、「あ…」という形だけを開く。
 冷たさは指先を伝って俺の脳髄に達する。
 美咲さんの瞳が、すっと潤むのが分かった。
「私ね…私ね…」
 俺は手の平に少し力を込める。
「きっと、落ち着くべきなんだと思う」
 そして手を離す。
「出ようか?」
 美咲さんに問いかける。
 こくり、としたうなずきが返ってきた。


「カーテン、閉めないの…?」
「うーん。いいや」
 俺はさっと美咲さんの唇をふさいだ。
 この家に美咲さんが来る頻度は、1週間に1回になり、2回になり、2週間に1回になっていた。2ヶ月に満たない期間の出来事なのだから、頻度というほどの話ではないのだが。
 美咲さんが身を固くしたのは一瞬のことだった。ふっと力が抜けたかと思うと、すぐに両の腕が俺の背中に回ってくる。
 俺は唇を激しく動かさず、美咲さんの唇を舐めるようなキスをした。美咲さんはしばらく動かずにいたが、突然舌の先を滑らせてきた。
 美咲さんと俺の舌が、先の部分だけで絡まる。
 不安定な快感が蠢く。そのまま舌先での、微少な交歓が続く。
 時折漏れる吐息の量が多くなってきたのを見計らって、俺は美咲さんの唇の間から舌を差し込んだ。舌が深くねっとりと絡まって、互いの熱さがより深く感じられる。
 だが俺はすぐに舌を抜き、顔を上げた。一瞬のディープキッスだ。
 すると舌先の絡め合いはセミディープキッスか?
 そんな馬鹿な思考を掠めさせる事が出来るのは、キスの後に美咲さんがとろんとした表情になっているのを眺めるのが楽しいからだ。
 上がってしまった吐息を漏らしつつ、少し上目使いに俺を見つめる姿は、例えようもなくエロティックで愛おしい。
 俺は美咲さんの姿を十分楽しんだ後–––その事実に美咲さんが気づいているかどうかはわからないが–––美咲さんの肩に手を伸ばした。
 大した力を入れなくても、自然に美咲さんの身体はベッドに倒れていった。
 ただ、ベッドに腰掛けていたために、普通とは90度違う向きに美咲さんが横たわってしまう。
 仕方ないので、俺はベッドから降りて美咲さんの両足を持ち上げ、くるっと身体全体を回した。なんだか興ざめだという気もしたが、
「あ…」
 美咲さんはそうでもないようだった。小さく、不安そうな声が漏れる。
 サディスティックだというつもりはないのだが、性交の時に「慣れていない」素振りを見せてくれる方が安心感を得てしまうのは間違いない。
 もっとも、美咲さんの不安さは、普段からの性格と連続性を持っているように感じられてしまう。そこに、いつもの美咲さんの顔を見てしまう。その時、安心感を得た事に、なんとなく罪悪感を感じてしまう。
 俺はベッドの上にゆっくりと戻った。美咲さんは、定まらない瞳で俺を見る。
 「美咲さん」を抱くことに、何の罪悪感を見出しているのかはわからない。愛している人間を、普段の姿と抱いている時の姿で分断する事の方が、よっぽど罪の意識を感じるべき事のように思える。
 理性でそうわかっていても、この罪悪感を払拭するのは大変な作業なのだ。
 俺はブラジャーに手を伸ばし、前についているホックを外した。それをすぐ引き抜いて、床に投げる。
 それからすぐショーツに手をかける。唐突な俺の動きに、美咲さんの身体はきゅっと収縮した。それに構わず、俺は引き下ろしてしまう。ちょっと無理な力が入ったが、美咲さんが下半身を浮かせてくれたため、割と簡単に引き抜くことが出来た。
 それも床に投げる。
 見ると、ブラジャーもショーツも、色は弱いトーンのブラウンだった。
 そして躊躇なく美咲さんの身体にのしかかる。両手を伸ばして、胸の膨らみをつかむ。
 美咲さんは何も言わず、俺のされるがままにされていた。動きが急すぎて、ついていけなかったのかもしれない。よくあることだ。
 桜色の部分に無理な刺激が加わらないようにして、乳房全体に、くっ、くっ、と刺激を加えていく。それこそ「揉む」という形容がふさわしい。
 美咲さんはデニムのジャケットやワンピなんかを着たりしている事が多いから、ボディラインはわかりにくい。でも、実際には女性の体型としてかなり魅力的だと言っていいだろう。
 だから、俺の乱暴な愛撫に対しても柔らかい感触がしっかりと返ってくる。美咲さんが少し目を細めて見ているのは、苦痛からというより、ぼんやりとした快楽からのはずだ。その証拠に、段々と桜色が薔薇色に近づいていく。
 俺はおもむろに口を突起につけ、唇で転がした。左、右と、美咲さんの快感のしるしを確かめるかのように。そして生まれた潤いを使って、指先でも転がす。
「ぁ…」
 否定の声では、なかった。
 俺は自分の身体全体を、下の方にずらす。そして右手の人差し指と中指で、美咲さんの秘裂をくつろげる。
 きらめいてしまっている秘肉が露わになった。
 そのどうしようもなくいやらしい光景に、俺のペニスの膨張がじんじんと感じられてしまう。普段の美咲さんとは絶対結びつかないもの。だけど、あの美咲さんの瞳は、すぐ近くで俺を見ている。
 だが、その部分自体を刺激するのは、どうも苦手だった。
 申し訳程度に秘裂の周りを撫で回して、俺は自分のトランクスを脱ぎしてる。
 美咲さんは相変わらずふわふわとした瞳で俺を見ている。
「…いくよ」
 身体を美咲さんに寄せる。ほんの少し、美咲さんが顔を縦に振った。
 先の部分を秘裂の下の方ににあてる。力を入れると、ぐぐっという抵抗と共に、埋まっていく感触がある。
「っはっ…」
 美咲さんが息を詰めて、身体をこわばらせる。
 俺は躊躇せず、一気にペニスを突き入れた。
「あっ!」
 かすれた悲鳴が上がる。俺の身体に伝わってくるきつい感触は、美咲さんが感じているであろう苦痛を如実に示していた。
 締め付けの中を少しずつ引き抜いていく。周期的に強い締め付けがやってきて、美咲さんはその度により強い痛みを感じているようだ。
 俺は前傾を強めて、美咲さんの乳房に手を添えた。さっきの乱暴な愛撫の埋め合わせをするかのように、やわやわとしたタッチで全体をなで上げる。ほとんど乳房の形が変形しないほどの弱い愛撫だ。時折突起にも指を絡めてみる。
 もちろん、その動作と同時に、ゆっくりと抽送の動きは続けていた。だが、やはりこちらの痛みの方が強すぎるようで、美咲さんの苦しそうな表情は変わらなかった。
 俺はいつも美咲さんの苦痛を静める事が出来なかった。どうすればよいのかは、さっぱり思いつかない。だからといって、挿入のないセックスを楽しめるほどに俺は達観していなかった。
 結果的に、俺が一方的に快楽をむさぼるだけの時になってしまう。無理矢理速く済ませるのも、長く続けるのも後味が悪い。
 だから、俺は黙々と抽送を続け、自然と自らの快感が高めていくしかなかった。その間、美咲さんは自らに加えられる苦痛を感じるのだ。
「美咲さん、大丈夫…」
「うん…私は…大丈夫…だよ…」
 途切れ途切れの返事が返ってくる。美咲さんの目は、俺を見ているようには思えなかった。
 こんなやりきれない感情を、俺はいつまで抱えているんだろうか。
 感情の爆発を美咲さんにぶつける事だけは避けなければならなかった。俺は同じペースで抽送を繰り返す。
 そんな無機的な繰り返しでも、俺の身体は累加的に快楽を蓄えていった。
 限界に達する直前、引き抜く。
 白い液体が、美咲さんの腹部にまき散らされる。
「…はぁ…はぁ…」
 その時、俺は自分の息がいつの間にか荒くなっていた事に気がついた。
 美咲さんの頬は快楽を共有していたかのように上気していた。少し潤んだ瞳は、夢見ているかのように見えた。少しだけ半開きになった口は、何か物足りなさを示しているようにも見えた。
 それらを、俺の出した液体がまとめ上げている。
 現れた情景は、交歓の後として理想的なものだと言ってもよいのではないだろうか?
 だからこそ、当事者の俺はそこに醜悪なものを感じた。


「ごめん…俺、まだ下手なのかな…」
 こんな馬鹿な台詞を絞り出さなくてはならない。
「ううん…私…藤井君に抱かれるだけでいいから…」
「無理して我慢しないでよ。俺、そっちの方が辛いから…」
「いいの。本当に、私、それでいいから…」
 これまで何回か繰り返したやりとりをまた繰り返している。
 他人の快楽という不確かなものが、俺の上に重くのしかかっていた。美咲さんは一体何に快楽を感じるのか?そもそも、美咲さんは肉体的快楽を求めているのか?
 本人に訊くことのできない問い。
 美咲さんの表情をうかがってみても、何も見えてこなかった。洞察力という曖昧な概念が恋しい。
「どうしたの?」
「え?…うーんと、あのさ、劇の話だけど…」
「…うん」
「多分、彰とか、呼んでも来ないんじゃないかな」
「七瀬君?」
「きっと、俺の事、憎んでると思うから…」
 美咲さんはじっと黙り込んだ。
 適当に振るならもっと普通の話題が良かったと思いつつ、俺は美咲さんの返答を待つ。
「私は、七瀬君の気持ち、わからないけど…」
「うん」
「ただ、『憎む』とか、そういう言葉を使うのはやめて…そういう言葉は、言ったり聞いたりするだけで、何か、人のこころに良くない影響を与えるって、そう私は思うから…」
 少しうつむいて、でも真剣な表情で美咲さんは言った。
 「コトダマ」?
「そう…」
 どう返答したものか迷った。ただ、美咲さんとずっと一緒にいる事が、何らかの形で俺に変革を与えてくれるという予感がふっと生まれた。
「あやまるっていう言葉は…」
 俺は切り出す。
「うん」
「いい言葉だよね?きっと」
「そうだね…私は、すごいいい言葉だと思うよ」
「そうかな…」
「信じようよ。そういう風に」
「それも、いいかな」
「私は信じるよ」
「それじゃ、俺も信じる。…ちょっと、単純すぎるかな?」
「ふふふっ…でも、そうしようよ」
「なんか、指切りとか言いたくなる感じ」
「するの?」
「しないよ」