茜[記憶]


(以下のストーリーはこのSSの作者の解釈によるものです)
 何かにつけてちょっかいを掛けたりイタズラを仕掛けたりしなければ済まない高校生折原浩平。幼なじみである長森瑞佳に毎日起こされるような日々を送りつつも、彼はそれなりに面白く日々を過ごしていた。
 ある時、浩平は雨が降りしきる中、小さな空き地で佇む少女を見つける。彼女は浩平のクラスメイトである里村茜。話しかけてきた浩平に対し、茜はまともに反応をしない。ほとんど口を開かないまま、「何か用ですか?」と言うのがせいぜいだった。
 それをきっかけに、浩平は茜につきまとい始める。露骨に嫌な素振りを見せる茜の態度にも拘わらず。いつしか二人の関係は少しずつほぐれ始め、表面的には親密な仲になりつつあった。
 茜には、古くからの幼なじみである柚木詩子の存在があった。他校の生徒であるにも拘わらず浩平達の高校に押し掛けてくることで、浩平も彼女の存在を知ることとなる。詩子や、言葉を失った少女上月澪などとクリスマス・パーティーを開いたりと、茜の周囲には楽しい日常が展開しつつあるように見えた。
 だが、茜は長い間抱えていた傷があった。詩子との共通の幼なじみであった人間を失った経験を持っていたのだ。病気でも、事故でもない。「消滅」。あまりにも不条理な出来事だった。
 ある時期から、茜の周囲の人間はその幼なじみの事を次々に忘却していったのだ。よく知っているはずの人間もその幼なじみを知らないと一様に言い張った。ついには詩子までが、知らないと言い出した。絶望に包まれる茜。そしてある時、茜の目の前で突然「消えた」のだ。その場所が、雨の日に茜の赴く空き地だった。
 幼なじみが抱えていたのは、平凡な日常への倦怠。だが、浩平にも同じ徴候が表れつつあった。根本原因は、彼が妹を幼いときに失った経験。それが日常への倦怠を呼んだのか、別世界への憧憬を呼んだのかは分からない。ただ、浩平は茜の幼なじみと同じように誰からも忘れられつつあるのは間違いない事だった。茜は幼なじみを待ち続けた痛みを繰り返さないために、浩平に別れを告げる。
 しかし、浩平が「消える」事を選んだ場所は、偶然か必然か、あの空き地だった。降りしきる雨の中、他人として、傘の中で背を向けたまま会話を交わす二人。
 瞬間、浩平は「消えた」。
 そして二年が経った。

 ザァ…。
 分厚いカーテンを通して、微かに雨音が聞こえる。
 耳を澄ませば微妙なニュアンスが聞き取れるのかもしれないが、二重のカーテンで防音している人間に、そんな音が意味をもって聞こえるわけもない。今の茜にとって、雨音など単調なB・G・Mだ。
 かつての茜にとっては、雨音は黄泉へ誘う笛の音のようなものだった。どれほど気温が低かろうと、体調が悪かろうと。朝起きて無数の雨粒が地を叩くのが見えたなら、ふらふらとあの空き地に向かっていくのだ。
 最もひどかった時期には、雨が降り出したのが真夜中だったのに空き地に赴いて数時間を過ごしたこともある。精神科医にかかったなら、間違いなく強迫神経症の烙印を押されたことだろう。
 しかし、茜の家族は特に彼女に対して医学的な治療の必要性を感じていないようだった。彼女は数年間に渡って喪失の痛みを抱えながら振る舞った結果、「物静かで一人が好きな子」という類型化に自分を組み込むことに成功していたのだ。いや、組み込んだのは彼女の意志だけではなく、周囲の人間の無意識の意志が大いに関わっていたかも知れない。お互いの意志疎通可能性を残すために、人間は平気で類型化を行う。
 もちろん、詩子はそんな茜をずっと支えていた。しかも、献身的・義務的といった思いなど全くなしに。詩子は、驚くほどに「天然」なのだ。
 つまり、「腫れ物に触るような」という形容の、全く逆の事を詩子はやってのけるのだ。ある意味では超人的な能力とも言える。もちろん茜が落ち込んでいれば心配はするが、むやみに問題を大きくしない。5分間話を聞いて、「今度、どっか遊びに行って忘れればいいでしょ?」で済ませる性格だ。表面上は明るく振る舞って励まし、内面ではねちねちと心配するという、普通の人間のやる二面性を持っていないのだ。
 当たり前の話だが、茜は自分の本当の悩みを詩子にうち明けたりしない。その場その場で適当な理由を見つくろって、話すだけだ。それでも、詩子は真剣に聞いて、同情して、深読みせずに笑ってくれる。その単純さはどこか神聖なようにすら思える。
 ただ、詩子は「消えていった二人」をかつて覚えていたのに、今では忘れてしまった人間だというのは事実だった。それは常に茜の心を苦しめる。結局、問題に向き合わなくてはならないのは茜一人だったのだ。
 ザァ…。
 雨は一向に降り止む気配がない。朝から降り続く雨だ。普通の人間でも、自室の外に出るだけでうんざりしそうな天気だった。
 サラサラ…
 薄いシャーペンの芯が、ノートの上を滑っていく。茜の好きなHの芯だ。茜は何にしても淡いコントラストを好むようになっていた。それ以来、茜は何でも淡いものを好むようになった。浩平が「消えた」ことで、ますますその傾向は強まった。ピンク色の傘だけは、幼なじみと浩平が「消えた」時の名残として残ったが。
 書き記されているのは日記だった。
 記されているのはごく普通の内容。天気、ニュース、家族の出来事、学校での出来事。事実の羅列に終始しすぎているのを見れば、むしろ「普通でない」のかも知れない。小学生の「朝○○時に起きて…」形式の日記が、よりポイントを押さえ、細かく描写されているようなものだ。日記の一形式としてそういうものがあるのは間違いないが、19歳の女性が書くものとしては少々違和感を誘う。
 この形式の日記を書くようになったのは、大学に入ってからだった。細い罫の大学ノート。一行ずつ空けて書かれていく小さな文字。ノートの表紙には、よく見なければ見過ごしてしまいそうな、薄い「@」。
 事実だけ。思いは記さない。そういう日記だ。本人も、書くことにどのような意味があるのか見いだせてはいない。だから、一度書いた内容を後で見返すという事も無かった。ただ、幼なじみの事や浩平の事を記してはいけないと茜は思っていた。そうすることで、逆に記憶が滑り落ちていくように思えてならなかったのだ。
 結果として、日記の中にはひどく空っぽな茜の像が浮かび上がってきていた。他人がそれをのぞいたなら、茜はなんとつまらない人間なのだろうと思うのは間違いない。
 サラサラ…
 茜は、大学の授業の内容を簡単に記していく。「近現代史:戦間期ヨーロッパ概観」「英語:Session5」…。
 大学では、高校以上に友達を見出さなかった。クラスという単位が必要最小限の意味しか持ち得ていないのだから、当然だ。茜の下の名前を覚えている人間がいるのかすら疑わしい。もちろんサークルなど、茜にとって別世界のものだった。
 勉強はある程度やった。英語は相変わらず必修で苦しかったが、一般教養の授業なら、比較的好きな歴史や文学をやることが出来る。元々要領は良くないだけに授業内容をしっかり理解するのは大変だったが、その分茜は図書館や自宅で授業に関係した本を読みふけった。時間は有り余っていたのだ。ある教官に言わせれば、「ここ二十年で最も真面目な学生」だった。
 カチッ。
 大学での出来事を書き終えると、茜はシャーペンの芯を戻す。そしてブラウンの筆箱のチャックを開け、そこに静かにしまった。
 茜は筆箱の中に指を入れたまま、何か考えているかのように動きを止める。しばらくその状態を保ち、やがてごそごそと筆箱の中を探り出す。
 取り出されたのは、やはりシャーペンだった。ただ、さっき茜が使っていたのはディープレッドの落ち着いた色合いのものだったのだが、このシャーペンは頭にキッチュなデザインの人形の頭のようなものがついている所が違う。あまり茜には似つかわしくない、原色に近いグリーンの人形だった。人形の顔もふてぶてしい笑いを浮かべており、茜が好んで買うようなデザインには見えない。
 茜はそのシャーペンを、上下逆にしてつまんだ。
 「胴体」の部分を軸を中心にしてくるくる回転させたり(全体を回転させる、いわゆる「シャーペン回し」ではない)、意味もなく上下に振ってみたりと、茜はひとしきりそれを弄(もてあそ)ぶ。
 それから、きゅっ、と軽く力を入れて茜はシャーペンをつまみ直した。
 茜はそのまま、シャーペンを無造作に下の方に移動させる。スカートのところまでシャーペンが来ると、茜の足が少し開いた。そして、なんと茜はシャーペンをスカートの中に入れて、頭の人形部分を股間に近づけていった。
 だが、茜の表情に、特に変わったところは見えない。強いて言えば、少しむっとした時のような、何を嫌がっているかのような表情に近い。それとて微かなもので、茜はほとんど何事も無いときのような、日記を書いていた時と同じ表情をしていた。
 誰にも見えない茜のショーツに、シャーペンの頭がこつんと当たる。本人にしか分からないことだが、それは正確にクリトリスの上に位置していた。
 茜はふにふにとシャーペンの頭を押し込む。ショーツの生地がわずかにへこみ、そのすぐ下の秘裂にも同じような圧力が加わる。陰唇に包まれたクリトリスには、ごく微細な刺激。秘部はショーツでぴっちり包まれているから、この程度の力ではシャーペンの頭が秘裂を割り開く事もない。ただ、上から圧力を加えているだけだ。
 ふにっふにっと茜はシャーペンの頭を動かす。時折、ブラシをかけるようなしゅっしゅっという動きも入った。一枚の生地を隔てて、秘部の表面をゆるやかにいじっているだけだから、大した刺激ではない。ただ、その真下に最も敏感なところがあるので、全く性感に結びつかないわけではなかった。
 突然神経の固まりに刺激を加えるのだから、この段階では大きな刺激は痛みにしかならない。そういう意味では、茜の行為は正しいのかもしれなかった。
 茜は相変わらず緩慢な刺激を続ける。と言っても、変化がないわけではないようだった。まず、人形の「顔」の部分でこすっていたのが、人形の「頭頂部」でこする動きに変わった。つまり、飛び出た二つの「耳」があるのだ。尖った部分を使った方が、与えられる刺激が大きくなるのは間違いない。事実、その小さな突起は時々秘裂の間に割り込んで、刺激のパルスを瞬間的に跳ね上げている。
 それから、手持ちぶさたになっていた左の手が滑り降りて太股をやんわり撫で始める。直接の性感帯に対する刺激では無かったが、そのような微妙な愛撫が全身の感覚を研ぎ澄ませていくのは確かだ。
 全体として緩慢な刺激を維持しつつも、ちょっとした変奏を幾度も繰り返していくうちに勢いがついてくる。テンポも上がる。当然、それは性感の高まりに正確なシンクロをしていた。自分の感覚器官を把握しきっている人間だからこそ出来る事だ。
 未だ秘裂の中に埋もれたクリトリスにも、次第に血流が流れ込んできていた。包皮にくるまれたまま、ぴんと尖って自己主張を始める。行為を始めた時にはただの圧迫感だった刺激が、はっきりと性感として茜に意識されるようになっていく。
 もっとも、ショーツと陰唇、粘膜と包皮を隔てて与えられる刺激は、やはり中途半端なものだった。そのもどかしさを埋めるかのように、茜がシャーペンを操る動きは段々と大胆なものになっていく。ぐっとシャーペンを押し入れ、秘裂を割って中を刺激するような動きも多くなっていく。
 たまに人形の頭全体を押し込んでしまう程に強く入れる事もあったが、布生地で粘膜が擦られるのはさすがに痛すぎるようだった。茜は顔をしかめながら慌ててシャーペンを引き抜く。ショーツにも無理な負担がかかるのだ。
 ならばショーツを脱いで指先で繊細に刺激を加えればよいのだが、茜はなぜかそれをしなかった。人が来るのを恐れていたわけではない。茜の部屋に入ってくる家族など、いなかった。恐らく、全裸になろうと玩具を使おうと誰も気づきはしないだろう。
 しかし茜はシャーペンによる不自由な自慰を続けた。やがて、肥大しきったクリトリスに満足な刺激も与えきれず、愛液でショーツを潤わせることもなく、茜は行為をやめる。
 カタン。
 茜がシャーペンを机の上に置いた。
 微かに上気した息を少しずつ吐き出す。まるで、自分の中にまだ渦巻いている欲望を空中に放出するかのように。
 自慰は茜の習慣だった。日記を毎日つけるように、習慣だった。
 一時期、浩平の記憶のためにあらゆる手段を探した事がある。
 記憶、記憶。その文字に魔力的に取り憑かれた茜が最初に求めたのは本だった。本という媒体が、一つの記憶の体系であるという直感も働いたのだろう。そして、読んだものも多くは記憶に関するものだった。
 ただし、実証的な記憶のメカニズムには茜は一切興味を示さなかった。いや、むしろ嫌悪を示した。物理や生物は元々好きでもなかったが、浩平が「消えて」以来は勉強する気が全く失せた。人がいかに記憶できるかを科学的に説明される事など、茜にとってはただの侮辱でしか無かったのだ。
 そのため、茜が読んだのはもっぱら哲学的な記憶に関わる問題だった。つまり、歴史記憶。一時期は浩平の記憶という目的すら忘れるほどにのめり込んだ。

–––いまや、記憶されるべき出来事そのものが、記憶への挑戦として、忘却への罠として生起する––– 高橋哲哉『記憶のエチカ』

 そんな一節に、わけもなく涙が溢れた事もある。
 だが、それも一時の事だった。社会全体としての記憶、歴史的出来事の記憶に茜の求めていたものはなかったのだ。茜にとっての浩平はパーソナルなもの。詩子や、瑞佳や、澪や、様々な人々と共有した記憶も、社会という広がりをもって捉えるべきものではない。浩平に関わったわずかな人々が、極めて小さなコミュニティで成立させていた記憶が慈(いつく)しい。
 一時期は、エゴイスティックな考えではないかと随分迷った。だが、それでも茜は自分の求める記憶を記憶し続ける事にしようと思ったのだ。
 その反動か、茜が次に求めた手段はいかがわしいものになった。きっかけは、一つの夢だった。


「んっ、んっ、浩平、いいっ!」
 茜が長い髪を振り乱して腰を振る。愛しい人の腰の上にまたがって、結合部分が露わになっているのも構わずに。
 自分の秘部が、愛の雫でどろどろに溶けているのがはっきり分かった。そこに飲み込んだ浩平のペニスは、まるで抵抗無く動き、茜の一番深い部分に力強いストロークを打ち込む。
「あ…私、もう、だめです、イキます!」
 茜は自ら宣言し、身体を浩平の方に倒して最後の抽送を思い切り行う。
「あ、あーーーっ!」
 目も眩むような絶頂に、茜は絶叫した。全身がびくびくと痙攣する。同時に、熱い液体がヴァギナの中にどくっどくっと放出されるのがわかる。
「浩平、熱い…」
 ひゅくっ…ひゅくっと未だ痙攣するヴァギナで浩平を飲み込んだまま、茜は夢見るようにつぶやいた。


 なぜ欲望の浄化装置である夢が、欲望をそのままの形で、しかも普段の茜のペルソナと全く違う形を用いて表したのかは分からない。ただ、そこにあったのは激烈なリアリティーだった。
 茜はそれに惹かれた。パーソナルな記憶をがっしりとつなぎ止めるものを見つけた気がした。が、すぐに幻滅する事になる。実際には浩平に一度抱かれただけの身体だけだったのだから、当然だ。
 後に残ったのは習慣だった。
 自己嫌悪に陥りつつも行為をやめられない茜は、そこに禁欲の機制まで持ち込んでしまった。それが導いたのが、あの不完全な自慰である。欲望と禁欲の間で形容矛盾を起こしながら、茜の行為はずっとずっと続いていた。
 他者から受ける類型化。
 無味乾燥な日記。
 歴史記憶。
 セックスの記憶。
 強迫的な禁欲。
 –––あまりにも滑稽な精神遍歴。
 それでも、茜はいつしかそれを客観的に眺める事が出来るようになっていた。他者に、自分に、記憶に翻弄される自分を、楽しむことは出来ないまでも冷静に見つめることが出来るようになっていった。
 それからだろうか。幼なじみと浩平の事を記憶し続けていく事に自信を持てるようになったのは。それだけで人生を終える事が、幸せだと思えるようになったのは。


「この授業、面白くないね」
「そう?」
 茜は真面目にノートを取りながら詩子に言う。昔から詩子は周りを気にせず話すタイプだったし、茜は自分のするべき事を淡々とするタイプだ。その二人が10年以上つき合うと、会話は必ずしも向き合ってするものではなくなる。
「だって、全然分かんないもん」
「少し、勉強してみたらどうなの?」
「えー、なんで他大の授業に勉強までして出なきゃなんないのよ」
 だったらモグリをやめればいいのだが、詩子は一向に気にしていない。
「茜、どっか行って遊ぼうよ」
「だめ」
「けちー」
 詩子はふてくされる。
「高校より、モグるのが楽になったのはいいけど…茜が遊んでくれなきゃ、同じだね…ってあれ?高校の時?」
 詩子が少し考え込む。
 茜はそれに気づかないフリをして、またノートを取り始めた。