綾香[クスリ]


 ざくっ、ざっ、ざっ。
 足を進める度に、地面に積もった枯葉が騒がしい音を立てる。寺の境内に向かうために作られた道だ。道と言っても、樹を切り開いて土を人間の足で踏み固めたくらいのものだが。砂利も多少運び込まれているようだが、この季節は茶色い落ち葉に覆われて全然わからない。
 ちなみに、モミジやイチョウなどのカラフルな落ち葉はなく、ただただ地味な色彩の落ち葉が絨毯のように広がっていた。周りの木はかなり鬱蒼(うっそう)と茂っており、まだ昼だというのに太陽の光があまり差してこない。
 あまり気の利いた場所ではないが、綾香は結構こういった雰囲気が好きだった。無論、葵や浩之の練習場所につながるルートだという事もあるが、うるさく主張しない場というだけで、綾香は気に入ってしまう。つまらない言葉を使えば、「わびさび」だ。
 今は、葵達の練習に顔を出した帰りだった。相変わらずエクストリーム同好会に人は来ないみたいだし、浩之はもっぱら葵のサポート役に徹してばかりのようだが、葵の成長の様子を見ているだけでも面白い。葵のひたむきすぎる情熱を、浩之が何とかうまくまとめ上げてくれているようだ。
 一時期は葵を個人的にサポートする必要を感じていたのだが、その必要はほとんど無くなったと綾香は思っていた。ただ、時々自分の楽しみも兼ねて、二人の練習風景を眺めに来るだけである。
 綾香は腕時計を見た。セバスチャンに言っておいた時間よりも、少し遅れている。車を待たせているのだ。
 …もぁっ
「………!?」
 突然綾香は薬臭を感じた。嗅げば誰でもわかる、あのつんとした感じをかなり強烈にした香り。
 視界の中に白い布が見えた瞬間、がくっと身体が崩れた。肉体が意識の統御を離れたのがはっきり理解できた。試合中にも滅多にない感覚。
 薄れゆく意識の中で、綾香は「気配」やら「第六感」やら「みぞおちへの当て身」やらの嘘臭さをひしひしと感じていた。


 頭が嫌な重さを帯びている。
 意識が戻ってきた時、綾香に感じられたのはその不快感だけだった。それから、四肢が痛い。多少無理な姿勢で寝かせられていたのだろうという事は想像できる。
 無意識のうちに右手を上げようとすると、妙に重かった。
 じゃら…
 いや、違う。綾香の腕には、鉄の鎖がつながれていたのだ。視界が少しずつはっきりしてくる。綾香の右腕には、黒光りする鉄の鎖がかけられ、手錠でがっちりと固定されている。左腕もそうだ。
 両足首にも似たような手錠がかけられている。ただ、そこから伸びている鎖はぴんと張られていたため、足を引くことは出来ない。かと言って、前に出す事も出来なかった。綾香はイスのようなものに座らされていたのだ。腰の部分には何重にもロープが巻かれ、イスごと綾香の身体を固定している。要するに、両手が辛うじて自由なだけなのだ。
 異常な、「暴力的な」事態になりつつある事は明白だった。
 確かに綾香は格闘技をハイレベルにまで極めた人間だが、そこで展開される暴力はあくまで統御されたもの、スマートなものだ。そのリミッターを外した世界、負の闘争本能が純粋化された、血の紅を思い起こさずにはいられない暴力に関しては、綾香は全く興味を持っていなかった。
 無論、綾香は殴る蹴るの暴行を受けて血を見る事を予感していたのではない。ただ、綾香を拘束する黒い鎖とロープの中に、そういった危険な暴力と同じ匂いを感じ取っていたのだ。
 それでも、何とか綾香は周囲の状況を認識しようと試みる。まだ脳の中に残っているらしい薬の影響か、意識はうまくまとまらなかった。だが、綾香は五感を必死で研ぎ澄ませる。
 その時、初めて何かの音が聞こえる事に気がついた。
「…い。じゃ、お願いします」
 音、と認識した瞬間、それが会話であることがすぐに分かる。低く、落ち着いた男の声だ。なぜ会話が展開されている事に今まで気づかなかったのか、綾香は不可思議に感じた。
 会話、と認識すると、今度は視界の前の方に人間が立っているのがわかる。顔もすぐに見えた。黒く焼けた皮膚と、撫で付けられたオールバックの髪。サングラスのせいで、年齢や表情をうまくつかむ事は出来なかった。手には銀色の携帯電話がある。
 上下は真っ黒のスーツ。どう見ても、まともな業界に属しているようには見えない人間だ。とは言え、滑稽なほどに分かりやすい格好も、時と場を踏まえれば効果的な威圧手段として働く。
 先程からもやもやと綾香の心を漂っていた思いが、「誘拐」の二字に結晶した。
 そして、綾香は自分を閉じこめている部屋の中も認識できるようになった。床はありふれたフローリング。綾香は広いと感じた。綾香の持つ「恵まれた住環境での成長」という感覚を考慮に入れれば、相当に広いことがわかる。ただ、綾香は部屋を畳数で数える習慣を持っていなかったので、彼女の中に生まれたのは「学校の教室を一回り広くしたくらい」というイメージだった。
 しかし、その広い部屋に比すれば、ほとんど物が無いと言っていい。とりあえず目に入るのは、黒い布をかぶせられた二つの物体。大人の背丈くらいはあるだろう。常識的に考えれば、業務用のカメラ。こんな状況でなければ、部屋は無骨なスタジオといった感じに見えるだろう。
 後は、灰色のドアが部屋の端にあるだけだ。その近くに、電気のスイッチがやたらと多くあるのも見える。綾香の視力は両眼とも2.0、いわゆる「見えすぎ」というレベルをキープしているのだ。
 これだけきょろきょろと観察する間に、綾香は黒服の男が何か話しかけてくるのではないかと思っていた。だが、男はさっきと同じ場所に立ったまま動かない。直立不動というわけではないが、タバコを吹かすとか、携帯電話を操作するとか、そういう動作は一切無く、ただ立っている。綾香の事を見ているようにも見えたが、サングラスのために確信は出来ない。
 何か口に出すべきかと思ったが、やめておいた。さっきの会話から考えれば、男が携帯電話で誰かを呼びだしていたのは間違いない。恐らく、男の上にいるであろう誰か。
 来るまでにどれくらい掛かるのだろう。30秒か、10分か、3時間か、1日か、それとも数日か…。
 ちゃっ。
 ドアが開く。
 綾香の想像は、最初のものが正解だったようだった。だったらわざわざ携帯電話で呼び出す必要もないのに、と綾香は思う。セバスチャンも、たまにやっている事だが。
 入ってきたのは、似たような黒服の男だった。
 サングラスも同じ。身につけているものだけで言えば、最初からいた方と全く区別する事が出来なかった。ただ、グリースで立てられた短めの髪と、特に黒くも白くもない皮膚の色で、二人の区別は簡単に出来る。顔の作りも良く見れば違うのだろうが、そんな事をするモチベーションは綾香に無かった。
 男は、黒い小さな鞄を持っていた。革張りと思(おぼ)しき、角張った鞄だ。綾香はじっと男の挙動を見守る。
 一定のペースで、男はこちらの方に歩いてきた。黒い靴下のためか、足音は全然聞こえない。フローリングの上を、するすると滑るように歩く。
 綾香は、二人が何らかの報告を交わしたりするのではないかと思ったが、そういう素振りはない。日焼けした方はさっきと同じようにじっとしているし–––ドアが開いたときすら振り向いていなかった–––鞄を持った方は綾香の方に直線的に歩いてくる。
 結局、綾香は未だ有効な情報を引き出すチャンスを与えられないようだった。この後も無言を通されれば、どうする事も出来ない。
「嬢ちゃん、気分はどうだ?」
 その予感は一瞬にして破られる。
 綾香はぐっと男を下からにらみ付けた。一対一で対峙している時なら、大の男でも怖じ気(おじけ)づくような迫力がある。もちろん、この場で有効とは思っていなかった。それでも、やらずにはいられない。
「最悪に近いわね」
「薬がまだ抜けてないんだろ。放っとけば治る」
「周りの物が、変な見え方したり聞こえ方したりするのよ」
「ああ、それは精神安定剤の方かもな。一応打っといたんだ。パニック起こされると困るからな」
「大きなお世話ね」
「前例があるもんでな。まあ勘弁しろや」
 意外なほどに男は饒舌だった。
「俺は浅川。あいつは加藤だ」
「………」
 さすがに綾香は言葉を無くす。
「知りたくないわね、そんなもの」
「まあそう言うな。その方が何かと便利だろ」
「…じゃあ浅川さん、あなた達の目的は何かしら?」
「そうだな。身代金とかじゃないってことだけは言っておこうか」
 まともな反応が返ってきた事は意外だったが、有効な情報とは言い難かった。
「俺達はエージェントなんだよ」
「エージェント?」
「仕事を依頼されて、それを遂行する。で、金をもらうわけだ」
「全然、説明になってないわ」
「焦るな。すぐ理解できる」
 浅川は鞄を縦に割るようにして開く。中から取り出されたのは、小さな注射器だった。プラスチックで出来た、使い捨てのものだ。それからもう一つ、注射器と同じくらいの大きさのアンプルを取り出す。
「また薬?」
 綾香は内心の恐怖を抑えつつ、問う。
 浅川は鞄を床に置いた。そして注射器とアンプルを持ち、シリンダーを引いてゆっくりとアンプルの薬液を注射器に満たしていく。注射器の中が少し濁った透明な液体で一杯になるのが、良く分かった。
「何なの!」
 反応がない。突然無言になった事が、綾香の小さな恐怖を膨らましていく。
 浅川は注射器を片手に持ったまま、一歩綾香に近づく。
「やめて!」
「言っておくが」
 浅川の声が少し低くなっていた。
「暴れたら針が折れるぞ。確実にな」
「……!?」
 拳を跳ね上げようとした綾香の手が止まる。その手を浅川はつかみ、二の腕に針を近づけていく。
 なぜ試合中の強烈なキックの衝撃と痛みには耐えられて、注射器の針が折れる事の恐怖と痛みに耐えられないのか、綾香は自分で理解できなかった。
「う…」
 針が刺さる。痛いのは間違いないが、それ以上におぞましいという感覚の方が強い。
 注射器の中の薬が段々減っていくさまが綾香の目にもはっきり見えていた。針が刺された所から、得体の知れない物質が血流に乗ろうとしている事を想像し、綾香は背筋が寒くなった。
 薬が全部注入されると、浅川は針を無造作に抜く。
 期待はしていなかったが、針の跡を脱脂綿で消毒するような処置は一切無かった。少し滲み出た血が、人格をもって扱われていないという綾香の思いを深くする。
 からん…。
 浅川は注射器を部屋の隅に放り投げた。
「身代金じゃないって言ったがな。依頼してきた連中の目的が金なのは間違いない。いや、キャッシュじゃないかもな。とにかく、商売上のメリットを得るための何かだ」
 唐突に浅川が話し出す。
「あいつらには、来栖川を脅迫するネタづくりが必要なわけだ。だが、来栖川の娘をいきなり誘拐しても、時間はかかるし、解放した後に警察が動くのは間違いないだろう」
 自分の家の呼称が適当に扱われた事に、綾香は不快感を感じた。
「誘拐してる時間は短ければ短いほどいいし、決定的なネタを手元に置いておけるようにしたい。そうすりゃ、来栖川は裏切れないからな。警察に通報される心配もない」
 綾香は身を固くする。
 身の危険が、初めてリアリティを持って襲ってきた。
「どこの家でも、オヤジは娘をこの上無く大切にしてるからなぁ。娘の話になると、理性が飛ぶ。会社を傾けそうな話でも乗ってくる。ちょっとした便宜くらいなら、一発だな。そのちょっとした便宜が、来栖川くらいになるとメチャクチャでかい」
 父親の顔が浮かんできた。それから、セバスチャンの顔が。「お嬢様の身に何かあったら…!」というセバスチャンの口癖が、今更のようにじんじんと頭に響いてくる。
 外国帰りの綾香にとって、やはり日本は平和ボケだった。しかも、綾香にとってそこらのチンピラは敵でもないのだ。実際に危険な状況になる事など、あり得ないと思っていた。
 だが、現実に自分は一つのカギになってしまっている。自分の影響力をはるかに超えた事態を動かす、カギになってしまっている。
 謙虚の徳に、今ほど焦がれた事は無かった。芹香と綾香を比較した時に、いつでも父が引き合いに出していた言葉だ。何かある度に父はそう言っていたから、綾香は実力をひけらかすような少女には育たなかった。それでも、綾香の謙虚さは不十分だったのだろうか?
「じゃあ加藤、そろそろ準備してくれ」
 いつの間にか移動していた加藤が、黒い布の片方をばさっと取る。そこに現れたものは、やはり大型のビデオカメラだった。テレビカメラみたいな大きさだ。
 加藤は慣れた様子でカメラを操作すると、すぐファインダーらしき部分に目を当てる。サングラスはかけたままだった。カメラが回り始めたのかどうかは分からなかったが、撮られているかもしれないと思うだけで、綾香は行動が取れなくなる。
 綾香はいつの間にか身体が熱くなってきたのを感じた。彼女はそれを、大きな試合の前に感じる高揚感と同質のものだと解釈した。人の身体は緊張すると、一様に代謝を高めて緊急事態に備えるのだろう。
「で、気分はどうだ?」
 綾香は応えない。
「顔が随分赤くなってきてる。もう薬は回ったな」
 その時、初めて綾香は薬を投与されたという事を思い出した。自己嫌悪と焦燥感のせいで、状況の動きをうまく把握できなくなっていたのだ。
「あ、あの薬、なんだったの?」
「まだわかんないのか?それとも、知らないフリしてんのか?嬢ちゃんのアソコを興奮させるためのクスリに決まってるだろ」
 ………!
「自分の身体の感覚、確かめてみろよ」
 浅川の言葉に、否応なく身体感覚が鋭敏になってしまう。
 間違いなく身体全体は熱を帯びている。ただ、その中でも三箇所の部分が不自然に熱いようにも思えた。
「ヤッたことあるのかどうか知らんけどな。俺はこの仕事10年くらいやってきたが、嬢ちゃんくらいの年の娘はほとんどヤッてた。オヤジが箱入りで育ててたのもいたから、10人のうち6,7人てとこだが」
「いやっ…!」
 耳から入る下品な言葉に、綾香は嫌悪感を感じる。
 綾香は処女だった。さらに言えば、ボーイフレンド以上の関係になった男もいなかった。綾香の家が金持ちだということ、綾香がエクストリームのチャンピオンであること、綾香が「出来過ぎた」人格であること、綾香のルックスがかなり整っていたこと。どれも多かれ少なかれ原因ではあったろう。綾香は別段それを焦ったりしなかったし、男に媚びを売るような事もしなかった。
 性的な感覚については…全く知らないわけではない。ただ、芹香が魔術の絡みで持っている変な本を借りたことがある。芹香の情熱は一体どこに向かっているのか、綾香は一度知ってみようかとも思ったのだ。魔術がキリスト教道徳のカウンターカルチャーであるがゆえに、そこにはいかがわしい性の言説が無いことも無かった。
 その結果が詰まるところは、綾香の経験した稚拙な自慰である。
 一冊の本が導いた行為に、綾香は芹香が性的な行為についてどうあるのかやや不安に思った。しかし、それだけだ。綾香は特に熱中するする事も無かったし、習慣化させる事もなかった。
「ま、頃合いだろ」
 浅川が綾香の前にかがみ込んでくる。綾香は動くことすら出来なかった。
 制服のスカートに手が触れそうになると、さすがに身をよじろうとする。しかし、綾香の身体は全然動かない。
 浅川はまずスカートのウェスト部分をつかんで、下に引き下ろした。スカートはイスと綾香の背中に挟まれているためにやりにくい作業だったが、ぐいぐいと引っ張っていくにつれて次第にずり下がっていく。
 ヒップを通ると、後は抵抗が無かった。皺が寄ったスカートは、くるぶしの部分まで下げられてしまう。
 後に残っているのは、綾香の秘部をつつむオレンジ色のショーツだけだった。ロープで身体が縛られているためにブラウスの裾もあまり下まで下がっておらず、鮮やかな下着がぴっちりと綾香を包んでいるのがはっきり見える。
「もう濡れてるぞ」
「嘘!でたらめ言わないで!」
 事実、そんな感覚は無かった。
「見りゃわかるだろ」
 確かに、首を思い切り下げればわかったかもしれない。しかし、綾香はそうしなかった。ただ目を閉じ、かぶりを振る。
「クスリを使えば誰でもこうなるんだ。観念するこったな」
 浅川はそう言って、綾香のショーツに手を掛けた。
 さっきと同じようにぐいぐい引っ張る。生地が薄いぶん、スカートよりもスムーズに脱げていった。浅川はやはりそれをくるぶしの所まで持って行く。
 綾香の秘部は、男達の前に晒されてしまっているはずだった。綾香は固く固く目を閉じる。加藤がビデオを回し始めているのは、まず間違いないだろう。
「綺麗なもんだな。全然使ってなさそうだ」
 無遠慮な評価が下される。次の瞬間、秘裂がくいっと広げられるのがわかった。だが綾香の身体は動かない。処女地が汚されようとしているにも拘わらず、抵抗の気力が全然出てこないのだ。
「やっぱり濡れてる。間違いない」
 否定したかったが、綾香の目はもう開ける事が出来なくなっていた。
 浅川は秘裂の入り口を、なぶるようにくすぐった。意識の外に追いやる事など不可能だ。綾香の性器は、愛撫されているのだ。
 そうされていくうちに、綾香の乳房の先端はピンと勃起していった。それが男達の目に触れていない事は幸いだったが、ブラジャーを突き上げる二つの突起は次第に痛みを覚えていく。その上、痛みの中に少しく快感の萌芽すら感じられた。しかし服を脱がして欲しいと頼み込む事など出来るはずもない…。
「もう限界か?」
「そんなわけ…ないでしょ…」
「そうか。いつまで持つか楽しみだ」
 浅川は全く同じペースで秘裂の表面だけを刺激していた。決定的な刺激がないために綾香は平静を保っていられたが、身体の奥底に眠る性感が少しずつ、少しずつ引き出されている事は知覚できた。しかも、その性感は一度引き出されると、二度と深層へ戻る事は無かった。時間が経つごとに、不可逆的に膨れ上がっていくだけなのだ。
「どうやら、嬢ちゃんはオナニーも未経験だったようだな。こんなに反応が鈍いのも珍しい」
 それは誤りだった。変な気分になる。
「加藤、場合によってはもう一本クスリだな」
「大丈夫ですか?」
「なぁに、身体は丈夫なはずだ。時間が掛かりすぎる方が問題だろ」
 綾香は戦慄した。
 クスリの効果が倍になるのか、倍未満にしかならないのか、はたまた相乗効果で数倍になるのか、それは分からない。ただ、いずれにしても、綾香の身体がますます彼女の言う事を聞かなくなるのは確かなのだ。
 それは純粋に恐怖だった。
「ね、ねぇ」
 綾香は喉の奥につっかえそうになる言葉を、何とか吐き出す。
「なんだ?」
「入れるなら、早く入れてよ…さっさと終わっちゃう方が楽だから」
 綾香の頭は、混乱していた。処女を失う事の意味があまりに軽視されているようだ。あるいは破瓜の痛みを感じることが、不注意によって失敗を招いた彼女の償いの証だったのかもしれない。
「キズモノにするとな」
 浅川が指の動きを止めて、言う。
「キレるオヤジがいるんだよ。自分の娘とむさい男がヤッてるの見せられて。しかも嬢ちゃんは処女だし、オヤジは相当子煩悩だろ」
 綾香は父の反応を想像しようとしたが、あまりに恐ろしく、それを放棄した。
 スーツの擦れる音がする。浅川が立ち上がったのだ。それにつられ、綾香は目を開ける。
「だから、自分でオナニーしてもらう事にしてるんだ。俺達は。娘が自分でいじってるのを見る方がショックもでかいし、オヤジの怒りを買いにくいんだな」
「!?」
「そうじゃなきゃ、無理矢理入れて終わりでいいだろ。あんなクスリ使う意味がどこにあるんだ?」
 言われて、納得してしまいそうになる。
 だが、すぐに恥辱の大きさで綾香の頭は一杯になった。抵抗する中無理矢理強姦されるのではなく、自分の手で自分を汚すことを強要されるのだ。
 自分を汚すというのは芹香の本にあった表現だった。シャワーを浴びながら性感帯をまさぐった時には、そんなフレーズは記憶のはるか外にあった。だが、今ここで自慰をする事は、自分を、いや来栖川を汚すという意味を持っているのだ。
 しかし、綾香が拒んだなら、男達は二本目のクスリを綾香に打つだろう。それでダメなら、三本目を。そして、いつしか綾香は狂気の愉悦の中で快感をむさぼる事になるだろう。いくら拒み続けても、解放される見込みも、助けが来る見込みもないのだ。
「もうそろそろ我慢出来なくなってるだろ?気にせずやっちゃえよ」
 確かに。むらむらとした欲望の固まりが、綾香の性器に宿り始めているのも事実だ。綾香は抵抗に、何の意味も見いだせなかった。
 選択肢は一つ。選択とは言えないが、選択だ。
 ごめん、パパ…
 じゃらっ。
 綾香は泣き出しそうになる感情を押さえ込み、不自由な両手を股間に運んでいった。
 まず、浅川がしていたように両指で秘裂の表面を少し撫でる。先程と同じ刺激でも、自分でするのは全く違ったものだった。まず、指が細いために刺激が少し繊細に感じられる。それから、陰毛をかき分ける感じが、さっきよりもよく分かる。そしてもちろん、浅川にやられるより背徳的だった。
 その、性器に興味を持った幼児のような動作をしばし続けた後、綾香は秘裂を少し広げる。
 中には、自分でも初めて見る愛液のきらめきがあった。シャワールームでは分泌されていたかどうか分からないそれを見て、綾香は自分の身体が刺激に反応している事を思い知らされる。浅川が最初に言った時にもう分泌されていたのかは分からないが、とにかく今綾香は濡れているのだ。
 綾香は恐る恐る粘膜を触る。
 痛くはなかった。前は痛かったのだ。その時、ピンク色の粘膜は触れてはいけないところだと主張するかのように、綾香に痛みを与えた。結局綾香は、胸を揉むことと乳頭への軽い刺激、秘裂の表面への刺激にほのかな快感を見出しただけだった。
 だのに、今綾香の秘裂は、侵入してきた綾香自身の指を拒まず、ぬるっとした粘液の感覚で迎える。そこに、じわっとした快感が生まれる。
 その感覚は、秘裂の表面を触った時の感覚を、乳頭を指先で転がした時と同じくらいに増幅したものだった。秘裂と胸で感じられる快感の味は、微妙に違うのだ。そして、秘裂で感じるそれの方が、より直接的で、背徳的なまでにいやらしかった。
 綾香は愛液で指先を濡らし、粘膜を少しずつ撫でたり押し込んだりする。その度に、びんびんと快感が走った。思わず刺激を強くすると、それに応じた快感が返ってくる。綾香は次第に、行為の虜になっていった。もちろん、その感覚はクスリで増幅されたものなのだが、綾香の理性は次第に混濁しつつあったのだ。
 綾香の身体の奥底から、何かがあふれ出しそうになる。綾香は反射的にそれを止めていた。だが、峻烈な快感が走り抜ける度、我慢は限界の直前にまで達する。抑えきれなかった部分が、じゅくっ、じゅくっと秘裂の中に吐き出される。
「クリトリスを触れ!」
 浅川の声が飛ぶ。綾香ははっとなって顔を上げた。
 二人の男の存在が、視界の中に入ってくる。加藤は真剣にビデオを操作しており、浅川は少し離れたところで綾香の動向をじっと見ていた。それでも、指を秘裂の中でぐにぐにと動かすのは止まらなかった。
 綾香は頬を真っ赤に染める。火が出たという表現そのものだった。すぐに視線を落とす。割れ目の間から微かに白っぽい液体が垂れて、イスの上に水たまりを作ってしまっているのが見えた。また綾香は恥辱に襲われる。
 しかし、その恥辱も綾香の行為を止めるには至らなかった。綾香は二本の指で、思い切り秘裂を開く。秘裂の割れ目の始まるところに、包皮をかぶった突起が見える。
 かつては激痛を感じただけの場所だったが、今は綾香の快感を吸って思い切り膨れ上がり、今か今かと触られるのを待っている。
 綾香はたっぷりと愛液に浸した指で、そうっとクリトリスをつまんだ。
 瞬間、ずんとした快感が腰から脳天まで走り抜ける。
 耐えきれなかった。綾香の奥底にあったどろりとした欲望が溶けだし、熱い液体となってほとばしる。秘裂を割り開いていたため、ヴァギナから愛液が噴き出したかのように見えた。
 ヴァギナは影になってわかりにくいとはいえ、恐らくカメラは今のシーンを捕らえていたことだろう。だが、綾香の意識にはもう浅川も加藤も来栖川も映っていなかった。
 もう一度クリトリスを触る。同じように快感が弾け、愛液がどっとあふれ出す。すぐに秘裂の中は洪水のように熱い液体で満たされていった。綾香はかなり愛液の分泌が多い体質のようだが、本人に分かるはずもない。自分の身体が見せる過剰な反応に戦(おのの)くだけだ。
 綾香の快感は、手のつけようがないほど膨れ上がってしまっていた。腰から下がとろけるような感覚につつまれ、段々ふわふわとした気持ちになってくる。クリトリスを触る度に即物的な快感が与えられ、しかもそれが一向に引かない。一瞬で過ぎ去る快感というものが存在せず、ただただ累加的に快感が積み重なっていくのだ。
 もはや、綾香には何をしているのかすら分からなかった。熱っぽく厚ぼったい快感のゼリーに包まれているかのように、現実離れした感覚が綾香を襲う。
 綾香自身は気づいていなかったが、綾香の腰はぶるぶると痙攣を起こし始めていた。既に性感と言っていいのかすら分からない。クスリによって滅茶苦茶にされた脳は、正常な性の悦びからもかけ離れている快感を綾香にもたらしているのだ。
 薄れゆく意識の中で、「天国に行くのでも、地獄に行くのでもない」という芹香の本の表現が思い起こされた。


 ぱんぱん。
 自分の頬が打たれる感覚で、我に返る。
 綾香は、はるか昔に試合で気を失ったとき、同じようにして起こされていた事を思い出した。
 ゆっくりと目を開ける。綾香は仰向けで寝ていた。
 気分はそれほど悪くなかった。ただ、少し肌寒い。秋の風は、もうかなりの冷たさを帯びてきている。ブラウスだけでは厳しい季節になったようだ。寺女でも衣替えがあったことだし、制服かセーターを着るようにした方がいいかもしれない。
「…あれ?」
 綾香は一人声を上げる。
 屋根と木の手すり。どこかで見たことがある。
 上半身を起こすと、木に吊り下げられたサンドバッグが視界に飛び込んできた。いつも、葵と浩之が練習している神社の境内だ。
 綾香は時計を見やる。16:40。葵達と別れてから4時間経っていた。日も傾きつつあるようだ。
 一瞬、夢から醒めた後のようにも思えた。だが、今頬を叩いて起こしたのは誰なのか。
 疑問に至った瞬間、がさっがさっと落ち葉の上を歩く音が聞こえた。
「あおいー?ひろゆきー?」
 声が空しく響いていく。誰も出てこない。
 落ち葉の上を歩く音は、段々と遠ざかっていった。恐らく、綾香を起こした人間なのだろう。それが誰なのか、確かめる術は無かった。今から追っても間に合うはずはないし、追いたくないのだ。
 綾香は立ち上がった。ぎしっと音が立つ。社に上がるところに、綾香のスニーカーがきちんと揃えて置いてあった。
 スニーカーを履いていても、今ひとつ現実感がなかった。雲の上で足を踏みしめているような感じだ。
 何とは無しに、社の周りを回ってみる。葵が竹ぼうきでいつも掃除しているため、落ち葉はまばらにしかない。
 だから、社の裏に一つゴミが落ちているのが妙に綾香の目に飛び込んできた。見るだけでわかる。どこでも配っている、テレクラのティッシュの袋だ。中身は入っていない。空っぽだ。
 そのまま視線を横にずらすと、林の中に白っぽい固まりが見える。ティッシュを何枚も丸めて作ったボールみたいなものだった。視線を元に戻すと、ティッシュの袋の周りの地面が少し変色しているのが分かった。変色していると言っても、少し色が濃くなっているだけだが。水を点々とこぼしてしまったような感じである。
 綾香は社の周りを回りながら、考える。
 そうする内に、綾香は社の正面を通り過ぎ、境内周回の二周目に入りそうになる。
 綾香の前には、葵の赤いサンドバッグがあった。
 ………
「ィヤァァァッ!」
 ズバンッッ!
 綾香は鋭い声と共に、突如ハイキックを打ち込む。
 ウォーミングアップを全くせずに打ったキックであるにも拘わらず、スピードとパワーは葵のそれと遜色ないものだった。
「はぁっ」
 綾香は鋭く吐息を吐き出す。
 全身を熱い血が駆けめぐろうとしていた。試合前に感じる、あの高揚感と同質のものだ。綾香はそれを辛うじて抑えこんだ。
 セバスチャンが心配している。その報告を受ければ、誰もが綾香を心配してくれる。
 その時、久しく感じたことが無い涙が、ぼろぼろと綾香の瞳からこぼれ落ちる。理由などわからない。あるいは、多すぎて特定できない。
 綾香は顔を覆った。小さく嗚咽を漏らしながら、一人の少女はただ泣いた。それを見守るものなど、誰もいない。ただ、泣いている彼女を、じっと「綾香」が見つめていた。